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北野武『素晴らしき休日』全解釈

『素晴らしき休日』は、北野武の映画(3分)だ。

カンヌ映画祭からの依頼「映画館をテーマにした3分間の映画」のために、この作品は撮られた。

この3分間の映画は、2時間の映画と変わらない映画的エッセンスに溢れている。

 

先日、この作品を友人と観たとき、私よりエドワード・ヤンの作品を理解するその人が、私のようにはこの作品を観ないことが分かった。

私は自分の映画の見方に不安を感じたので、ここに解釈を書いてみる。

『素晴らしき休日』、つまりは映画を「観る」ということを私はできているのだろうか。

http://shortsbay.com/film/one-fine-day

 

C1

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映画が作りもの、虚構であることを伝えるファーストショット。空/青、草/緑、道/線。雲、山、花というシンプルなイラストレーションのような画面構成が「絵に描いたような」景色を生み出し、リアリティよりもフィクショナルな印象を観る者に与える(田舎を舞台にすることで、現実にギリギリあり得る風景に設定している)。さらに手描きのタイトルが重ねられ、「描かれた景色」感がより増す。

道の向こう=スクリーンの奥から、映画の中の住人=キャラクターがやってくる。

(男が登場し、建物前に自転車を止める)

 

C2

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(男、映画館の受付でチケットを買う)

 

C3

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犬、「お座り」のポーズをしている。

(犬、映画館内に繋がれている)

 

C4

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「お座り」をしている犬と、座席に「座っている」男。彼らの相似は引き続き示される。

(男、タバコをふかす)

 

C5

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男が後方を意識することで、スクリーンと映写機が関係していること、両者を結ぶ空間内に観客がいるという構図が示される。

(男、「始めます」の声が鳴る後方を振り返る。館内暗くなる)

 

C6

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映画内映画のキャラクター2名が、自転車に乗っている。

(映画『キッズ・リターン』が上映されるが、途中で映像ノイズが起こり、画面が白くなる)

 

C7

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カメラのファインダー、およびスクリーンを思わせる四角いフレームの穴から光(=映画)が飛び出ている。その後、同じフレームから映画を作った本人、映画監督(北野武)の顔が見える。光=映写技師=映画監督(映画作品=映画を上映する人=映画を作る人)という一致が示される。

(映写技師、フィルムを整備する)

 

C8

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タバコの吸い殻が時間の経過を示す。

(複数のタバコの吸い殻が、男の足元にある)

 

C9

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男=観客が持つタバコ(観客の息吹を可視化するモチーフ)は、白煙、火種、炎の要素を持っている。

(男、タバコを吸いながら上映再開を待つ)

 

C10

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強すぎる光(やりすぎた創作、映画)は、熱、炎となり、燃え、壊れ、作品を見ることができない(成立しない)状態にしてしまう。

カメラはここで、全ショット中、唯一動く。カメラは観客である男に近づき、男もカメラの方を向く。映画の危機において、両者は接近する。映画消滅の危機に反応する男は、映写機の光にやや照らされる。

(映画は再開するが、途中で止まり、フィルムが燃える。男、後ろを振り向く)

 

C11

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映画監督は作品を救おうと風を起こす。映画監督の顔、映写機の光が、四角いフレームで切り取られている。映画を作り出す彼らは作品そのものであること、作品同様、カメラで切り取られ、「見られる」存在であることを示す。

映写機による強い発光=白煙と、男によるタバコの火=白煙は、ともにフィルムを焼く要素を持っている。作り手も観客も、どちらも映画を壊してしまうエネルギーを潜在的に持っている。

(映写技師、燃えるフィルムの火を消そうと映写機を扇ぐ)

 

C12

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犬の前にタバコと同じ配色、黄土色と白色をしたパンが投げられる。

(犬、映画館内に繋がれている)

 

C13

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同じ色のモチーフを犬と男が持つことで、2体が似た存在であることが示される。それぞれ柱、イスと、映画館を構築する要素に従属してもいる。無言の犬(作品の内容を解さないあどけない存在)と男(内容を理解する脳を持つ)は、2つの観客の姿である。

(男、ちぎったパンを投げる)

 

C14

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(男、再開した映画を見る)

 

C15

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男の後ろに後光のような映写機の光がある。映画のクライマックスにおいて、光=映画と、男=観客は重なる。

(男の顔)

 

C16

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(エンドロールが流れ始める)

 

C17

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再び、男と映写機の光が重なるが、映画が終わったため、光はさきほどの半分ほどに薄れている。

(男の顔)

 

C18

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(エンドロール)

 

C19

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映画内キャラクターの男の自転車が消えている(映画を観ている間に盗まれたと解釈できる)一方、自転車というモチーフは、映画内映画である『キッズ・リターン』に登場している。このことは、虚構である映画と現実の相互関係を示唆する(映画は虚構であるが、現実世界の観客の心を変化させるし、現実に起こった事件や環境が、映画には反映される)。

(映画館から出てくる男。自転車を探すように首を動かす)

 

C20

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ファーストショットと同じ構図の寄りであるラストショット。「観客」は映画全編を見ること=内容を共有することで、この作品の内容、世界観に親しんだため、カメラがやや近づいた。

カメラは上空に上がっていき、生身の人間では見ることができない=カメラでしか捉えることができないアングルへとますます位置を変えていく。ゆえに、このアングルは、カメラの視点=映画、この作品を観ている「観客」の視点である。

男は誰かに見られている視線を感じるかのように、不審そうに振り返る(映画内映画を見ていた映画内キャラクターが、自分も誰かに見られているのではないかとカメラの方を見る)。この映画の主人公、映画を観る観客は、この映画を観ている「観客」、私たち自身でもある。

 

日暮れの色彩から、男が映画館に数時間滞在したこと、空白時間を挟みながら、『キッズ・リターン』を全編観ただろうことが分かる。男が体験した空白時間はショットとショットの間の余白、映画の編集構造そのものである。

映画内キャラクターは、道の向こう=スクリーンの奥へと去っていく。

(男、来た道を歩いて帰る。振り返り、首をかしげる

 

===

 

この映画は、映画の映画である。

「映画は作られた虚構であるが、いかにして私たちの現実と重なり、互いに影響し合うか」がテーマだ。

この作品には、観客、映画チケットを販売する人、犬、映写技師、映画内映画キャラクター(『キッズ・リターン』の役者)が登場する。

映画内映画として、現実に存在する作品(『キッズ・リターン』)を、その作品の監督である北野武が映写技師として上映している。

映画内映画を観ていた観客の男は、ラストにおいて、ただ直感的に視線を感じて振り返る。このとき、この観客を見ている観客である私たちは、彼という観客自身であり、かつ映画内キャラクターである存在に見られている。

映画と現実は相互的な関係を持つことが、映画内映画と観客<自転車のモチーフ>、観客と私たち<振り返ってこちらを見るキャラクター>、映画内映画を上映する現実世界の映画監督によって示される。

 

以上である。

私がここに述べたようなことは、映画感想サイト、Filmarksなどに書かれていない。

私は映画を「観る」ことができているのだろうか。

皆は映画をどのように「観ている」のだろうか。

https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=15189

https://filmarks.com/movies/24361

 

『それぞれのシネマ(『素晴らしき休日』)』DVD 

『監督・ばんざい!(『素晴らしき休日』)』DVD

twitter.com

 

 

イメージアウラ——トーマス・ルフ、杉本博司、レン・ハンを経て(部分)

〈レン・ハンが亡くなった。トーマス・ルフ杉本博司の論考は、もともとレン・ハンについて書いたものだった。ここに一部を抜粋する。〉

 

 トーマス・ルフの展示に行くと、「写真を見る」のでなく、「見る写真」に立ち会うという現象に出くわす。

(省略)

2016年11月、写真をめぐる環境について、写真家よりも「写真展」について、そして「イメージアウラ」について、思うことを書く。

 

               ***

 

杉本博司「ロスト・ヒューマン」 2016.9.3—11.13 東京都写真美術館

(省略)

 

トーマス・ルフトーマス・ルフ」2016.8.30-11.31 東京国立近代美術館

(省略)

 

○Ren Hang 「東京」2016.09.01—24 マッチバコ

 新宿・世界堂の脇に、夜までオープンしているギャラリーがあること、そこでアメリカン・アパレルっぽいタンブラー写真を展示していることを、その日のツイッターが教えてくれた。会場に行って驚いたのは、目の前にある写真より、iPhone越しに見る展示の告知画像の方が圧倒的に良いことだった。これは皮肉ではなく、ただここにある写真が最も威力を発揮するのは、PCブラウザやモニターを介した場というだけだろう。写真家の名はレン・ハンという。後で調べたら、いつもタンブラーで回ってくる画像の撮影者で、無署名で流れてくる画像に「写真家」がいたことを私はやっと知った。女の子の髪の毛を広げて、そこに大人しい鳩を五匹くらい並べたやつとか、多分皆も見たことがあると思う。

 

               ***

 

 3つの展示を通して、私にとって最も有意義だったのはレン・ハンの東京展だった。私はギャラリーにいながら、自身のiPhone内のレン・ハンの写真に「イメージアウラ」があるのを見た。そしてタンブラー画像とひとまとめにしていたイメージが、実は「写真」であったこと、彼がハイパーなインターネット検閲国家・中国の作家としてあえてタンブラーを介すことで、「写真家」として無言の宣誓を試みていたことを知った。これはギャラリーで実際に彼のプリントを見なければ、気づけなかったことである。

 アウラとは、ヴァルター・ベンヤミンが提唱した、美術作品の「ほんもの」が有する「なんかやばい感じ」である〔*5〕。非言語的感覚をはらむため、批評家はもとより、私は自分以外にこの用語を用いる人物に会ったことがない。しかし「ほんもの」と「複製」が見る者に異なる印象をもたらすことは、美術の教科書に掲載された油画の画像から、重ねられた絵の具の凹凸を見出すことの困難さを思えば想像できるだろう。写真もまた、インターネットで見るか、写真集で見るか、展示室で見るか、それぞれが異なる視覚体験である。写真にしろ絵画にしろ、現物の作品が有するアウラをブラウザ越しに感じることはできない。だから、今まで作品のアウラが弱い写真家は、単にプリント技術が未成熟な者として扱われてきた。しかしレン・ハンの写真ではその逆転が起こっている。現物において貧しい写真が、ブラウザにおいてより貧しくなるのでなく、逆に魅力を有するという事態である。これは彼の写真が、ヴァルター・ベンヤミンが消失したと唱えながら、実は紙写真が有し続けた物質性に依存するアウラと決別しながら、構図とモチーフ、RGB特有の色調によりヴィジュアルとしての美しさを保つためだろう(そして彼が写す景色が、日常をちょっとだけ拡張させてくれるというインターネットのあり方と適合することも関係している)。発光するRBGカラーを味方にすることと、観客個人のモニターという、作家が直接介在することがない物質において立ち現れるアウラ、それが「イメージアウラ」である。レン・ハンにおいてはプリントよりもモニターで見るべきという反転状況がある〔*6〕が、もし自分のPCでRGBに変換された森山大道のフィルム写真を見ることができ、そこに美を見出したなら、それは「イメージアウラ」と呼べるだろう。

 無数のタンブラー写真の中から自身の作家性を屹立させようと企てていたレン・ハンの野心、そのためにRGBの発色を前提に制作していたであろう、作品を提示するインターフェースへの強い意識は、紛れもなく「写真家」のものである。自分の表現が、写真を外れるものなのか、写真を拡張させるものなのか、写真というメディアとの対峙がない作家は「写真家」ではない(だから発表形態に写真を使用していても、ソフィ・カルは写真家でなく、あくまでコンセプチュアル・アーティストである。そしてルフと杉本が、それぞれイメージとモノへどれだけ偏向しようが、写真について提起し続ける限り、彼らは「写真家」である)。

 

 2016年、写真を取りまく環境は変化し続けている。インターネットとスマートフォンが、「画像と写真」、「コンテンツと作品」の境界を今日も撹拌している。

(省略)

そして、レン・ハンである。写真をめぐる機運に反応する写真家たちに対し、私たちの写真について思考する土壌はどのように更新されているだろうか。私は、ほかの多くの写真懐古主義者たちと同様に、ブラウザの中に「写真」が潜む可能性に目を瞑っていた自分を恥じねばならない。私たちは、特定の写真作品以上に、イメージを取りまく環境について思考すべきである。今「写真」の価値は確かな「目」によって拾い上げなければ、画像の海に流されていってしまう。一体その目を持たず、刷新されていくレン・ハンやルフたちの写真をどうして「見る」ことができるだろう。「見る」目を持たない、見ようとしない観客は、来場者数という無機質な数に過ぎず、観客ですらいられないことは時代を問わない必然であるのに。 

 

 

*1(省略)

*2(省略)

*3(省略)

*4(省略)

*5

「ある夏の日の午後、ねそべったまま、地平線をかぎる山なみや、影を投げかける樹の枝を眼で追う―これが山なみの、あるいは樹の枝のアウラを呼吸することである(『複製技術時代の芸術』ヴァルター・ベンヤミン)」

ベンヤミンルドルフ・シュタイナーのオカルト哲学の影響を受けた一人である。美術作品においては古さが有する歴史性とその唯一性、また好きな人の写真から感じる礼拝的信仰感などが、本書ではアウラとして挙げられている。

*6

レン・ハンと同じく紙プリントにおける意義を発動しない同世代の写真家、梅佳代は、彼と異なりブラウザで見ようと現物を見ようと価値が変わらないという特徴を持つ。またレン・ハンが、一般家庭用のオート・フィルムカメラを使用するよう、テクニックを手離した写真家たちにより、写真の魅力はより広範に押し広げられていくだろう。

 

===

以上を改変したものを、下記に掲載頂きました。

ecrito.fever.jp

R.I.P.

任航 renhang

twitter.com

0号室とウジェーヌ・アジェ――コンテンツ・アート

0号室さんのインスタグラムがかっこいい。

https://www.instagram.com/0___room/

 

匿名の極地、といった感じだ。

  • 〈景色〉は無人
  • 〈人物〉は手足や後ろ姿のアップ。
  • 〈エフェクト〉は既存のスマホアプリのもの。

戦慄するほどディストピア

とにかく見た瞬間、「かっこよすぎ、アッジェじゃん」となった。

 

この人はツイッターやインスタグラムで、誰にでも当てはまるような匿名的な詩を書き、それを書籍化してお金を稼いでいる。だから誰もがこの人の詩や写真に、自分の心情を託せるよう、作品から固有性を排除している。匿名的な作品を、明確な意図を持って作ろうとし、作れている。

「0号室」という誰も所属不可能、現実に存在しないイリュージョンルームの名を掲げ、ツイッターやインスタグラムなどSNSの拡散機能を使い、ますます匿名度を高めているところも凄まじい。自己紹介欄には「なまえ、わすれました」と書かれている。匿名のプロフェッショナルである。

 

ウジェーヌ・アジェ*1は写真が小型化する前の1910年頃、「あえて匿名的な写真を撮り」「それを売ることで生計を立てて」いた。今みたいに一瞬で写真を撮るなんて不可能で、長時間カメラを置きっぱなしにして、じわじわ紙に像を焼きつけた。なるべく人がいない朝に撮ろうとしたし、このスペックで街にカメラを向けると、生活している人は像が定着する前に動き去っていくのでそう写らない。じっとしている建物だけ写る。そして人為的な生活用具、建造物といった人の痕跡はあるのに人がいないディストピア写真ができあがり、彼の死後、写真を見つけたシュルレアリスム界隈や中平卓馬が「なにこれ不穏、、」と注目した。

「匿名的な」というのは、アッジェは画家のためにストックフォトを撮っていたのである。つまり実相寺アングルみたいな特徴的なショットでなく、たくさんの画家が模写見本としてトレースできるよう汎用性の高い風景写真を撮っていた。0号室さんのインスタグラムは5万6千人もフォロワーがいるのだが、この人たちはアッジェの写真をアートとしてでなく、トレース元として購入していた画家たちにあたる。いま中高生たちの間で、0号室さんの詩を自分たちの写真の上に載せてSNSにアップするのが流行っているので、用いられ方まで一致し始めている。

彼らの写真を同じく匿名足らしめる主語のなさが、アッジェにおいては「誰もが見た(私も見ることができる)」印象を与えるのに対し、0号室さんのは「誰もが撮れる(私も撮れる)*2」感じを持つという違いはある。これは撮り手の性質の差というより、いくつものガジェットやアプリが、私たちをサポートしてくれる現代と100年前という時代の差において起こる印象の違いでもある。

 

こうやって類似点をあげつらう大喜利は、どんな対象同士でも可能だ。匿名性だけでいいなら、楽天に並ぶフリー画像とアッジェをこじつけたっていい。でも0号室さんのインスタグラムは、現代美術や写真に携わる人たちが刮目すべきものだ。だってモノがいい。徹底的に「画像」だ。「画像」の対局に、石川竜一や大橋仁の写真があるとして、0号室さんの場合、被写体の指の皮がささくれだっていても、そこに生々しさは感じられない。スマホで撮られ、アプリのエフェクトでより「画像」化され、普遍や匿名として霧散していく。

そんな「画像」がSNS特有のスクエアカットでスクロール式に並べられ、組写真としてのレイアウト効果を得るために、まとまりのある作品として見えてくる。底冷えするような「誰か」の視点の提示となり、結果的に現代日本の病巣のようなものを写し、表している。これはもうコンテンツでも画像でもなく、「コンテンツ・アート」だ。

 

私は、ぼく脳さん*3自動販売機の写真を毎日撮ってネットにあげている人*4たちの作品を「コンテンツ・アート」と呼んでいる(インターネットを徘徊していると、ときどき「コンテンツ・生アート」にも出会える)。「コンテンツ・アート」は今までの美術の枠組みでは生まれ得なかったものを提示する。美術館やギャラリーでの発表を想定していないために現れるもの、SNSやメールといったメディアと関係することで予期しない現代性を表すもの、それに付随する印象、感覚。

インスタグラムを扱う作家にアマリア・ウルマン*5がいるが、彼女の作品は画像を使ったコンセプチュアル・アートで、もっといえば見栄え良くパッケージ化されたデザインだ(そのことに何ら問題はない、ただ評価のベクトルが違う)。そんでもって我が国においていえば、コンセプチュアル・アートはインターネット芸人によってもう死んだ。かつて前衛芸術だったハイレッド・センターのアート・パフォーマンスはコンテンツサイトのライターたちの仕事となった。

SNSやブログで、アーティストでない人々が豊かなアイデアを呈してくれるようになった結果、コンセプチュアル・アーティストは絶滅した。そして、アーティストとインターネット芸人の違いは、ロジックやコンセプトの質でなく、アウトプットされた最終形態の是非で決まる。

 

0号室さんのインスタグラムは、5万6千人(この文章を書いている間に6万人になった)にとって「コンテンツ」だ。そのインスタグラムや、0号室さんの詩を自分の写真に当ててSNSにアップする活動を「コンテンツ・アート」と呼ぶのはマイノリティすぎる。でもシュルレアリストらがアッジェを取り立てたありがた迷惑同様、どうしても気になる。

SNSにアップされる画像の価値は、かわいい女の子だったり、かわいい犬だったり、写っている被写体そのものにある。価値があるのはキム・カーダシアン本体で、画像はそれを間接的に伝える。対して、0号室さんの画像は、写っているものに固有の価値はほとんどない。海外フォロワーの多さが示すよう、土地さえ凌駕する匿名性、ベッドのシーツ、女性の手、木々といった広域の生活圏において共有可能な匿名因子を写している。アッジェの撮った人物が、「帽子売り」や「水売り」といった記号的職業の提示だったように「女」とか「恋人」といった観念を示す。

 

この文章を書いている7日の間に0号室さんは結婚式をあげ、長らく同じだったプロフィール欄も変更してしまったが、まだ匿名度は健在だ。

画像、写真、アート、コンテンツ、、メディアの領域を定義しようとする不毛さを「コンテンツ・アート」は揺さぶる。しかし、0号室さんがインスタグラムの写真集を出版したら、それは「写真」なのだろうか。画像と写真の違いについて、インターネットには書いてあるだろうか。書いてあったとして、そのコンテンツを書いているのは匿名の誰かだ。

 

〈参考〉

*1 ウジェーヌ・アジェの写真

*2 恋人がいる5万6千人の人たちなら

*3 ぼく脳さんのtwitter

*4 自動販売機の写真を毎日撮ってネットにあげている人

*5 アマリア・ウルマンのインスタグラムパフォーマンス(アマリア・ウルマンによる架空であり、同姓同名の人物「アマリア・ウルマン」のSNSアカウント)

 

 

 

 

〈寝る前映像〉としてのリアル――『君の名は。』新海誠

私たちは、夜寝る前に布団の中で妄想している。

 

  • 好きな漫画のキャラクターになる
  • その漫画に新キャラとして登場する
  • 好きなアイドルや、好きなクラスの子といい感じになる

 

などの映像ヴィジョンを、毎晩夢想している。

 『君の名は。』は、この、夜の〈寝る前映像〉としてめっちゃリアルだ。

 

〈寝る前映像〉の特徴、「都合の良い展開、設定、ブツ切りシークエンス」は、『君の名は。』を構成する要素そのものである。

 

特に「ブツ切りシークエンス」。

夜寝る前の妄想は、自分がグッとくるシチュエーション「単体」であることが多い。2~5分や20分で1シチュエーション、眠れなくて2時間かけて4シチュエーションのこともある。

10分間の妄想だろうと、伏線もめっちゃ敷く。その伏線は1ヶ月前の夜から敷いてたりする。毎夜連続もののストーリーを5年くらい更新している人もいるし、今日はあれにするか、とかけもち連載状態の人もいると思う。ストーリーテリングに長けた人や設定フェチの人は、登場するモチーフに観念や意味を込めたりする。

君の名は。』に「MV的」、「エロゲのオープニング映像をダダダと並べたみたい」な印象を受けるのは、この1シチュエーションを1シークエンス(映像のまとまり)にして繋げているためだ。

〈寝る前映像〉は小シークエンスである。結果的に眠れず2時間を費やすこともあるが、基本的に寝付くための瞑想のため(心穏やかになり眠ることができるよう)、あらかじめ2時間ドラマを構想することはない。

要は〈寝る前映像〉に「捨てカット(編集上、シークエンスとシークエンスを違和感なく繋ぐためのカット)」はない。そして新海作品には、多くの映像作品が有する捨てカットというものがない。捨てカットとして代表的な家の遠景など、新海作品においては心象風景として機能するからだ(その心象は登場人物でなく新海のものだったりもする)。

「1シチュエーションにつき、1盛上がり」というシークエンスが怒涛のように紡がれ、そのスピード感が観る人に高揚感を与える。この状態は、かつてテレビが、鑑賞者の脳が情報を解析する前にネクスト情報を送り、テレビ画面に視聴者を引きつけていた半秒症の症例に近い。

盛上がりシチュエーション(シークエンス)がひたすら並べられていくこと、これがまず〈寝る前映像〉と『君の名は。』の共通点である。*1

 

                  *

 

誰も、『君の名は。』について、納得のいく評をくれなかった。

渡邉大輔さんだけが唯一、この映画の「画期」について書かれていたと思う。

 

私は『君の名は。』が若年層に人気だったのは、彼らが脳内で見る映像に近いからじゃないかと思う。私たちは目の前の世界を、映画の編集や「ショットつなぎ」のようには見ていない。そして、その定型に付き合う忍耐力はもはやない。ニコ動やyoutube、huluでは、時間をいくらでも飛ばし、見たい所だけ見る。カーソルで時間軸を好きに操作し、ただ眺めるのは暇なのでニコ動のコメント付きで再生したくなる。『シン・ゴジラ』『この世界の片隅に』も、セリフや作画、演出の放射で、見ていて息をつくゆとりがなかった。

 

                  *

 

〈寝る前映像〉と仮定して、実際のシーンを照らしてみる。

センパイ(美人)のスカートを、悪漢がカッターで切る…

シーンがあったと思う。

「スーツを着た悪漢(染髪、長髪の若者)」が「カッター(剥き身の)」…

どこから?

学生か?

現実社会におけるリアリティは全くない。しかしこれは〈寝る前映像〉として、めちゃくちゃリアルだ。「美人、スカート、染髪、長髪、スーツ、カッター」これらは全て記号の具現化である。

〈寝る前映像〉は、基本的に寝る前に想像される。脳が半分休息状態であり、自分がグッと来るシチュエーションのために必要な小道具や設定は、たいてい最初の思いつきが採用される。しかし、そのファーストアイデアは、最も無意識を反映し、かつ普遍性を持ち得ていたりする。

 

たとえば、なぜ「カッター」か。

君の名は。』と同じカフェレストランの舞台で、「悪者に襲われる美女を救う」を妄想してみる。

 

  • 先輩が殴られる→アザや顔の造形が崩れた女は萎える
  • 先輩の服が切られる→先輩の下着が皆に見えてしまう(→世の中という視線に犯されて自分より弱い存在となった人物を自分が庇護する優越感が得られる)
  • 武器が刃物じゃない→敵が細身でなく、筋肉質の人だったら腕力で負けてしまうかもしれない
  • 先輩を助けたら、感謝や尊敬の念をもらい、付き合えるかもしれない*2

 

といった内容を一瞬で想定し、寝る前の自分が不快にならないモチーフを取捨選択する。*3 それで、「剥き身のカッター」となる。

映画においては、ファーストアイデアでなく、それを元に熟考することが可能だ。しかし、このとき不良が汚れたペンケースからカッターを取り出すリアリティは、記号モチーフによる演出映像において、むしろリアルじゃない。具体的に写実してしまえばしまうほど、イメージとしての普遍性、共通イメージとしての「悪」「脅威」の提示から遠ざかってしまう。それはアニメーションが得意とする、主観表現としてのリアルではない。*4 

 

君の名は。』には、「そんなバカな」といった設定、モチーフ、展開がたくさんある。そもそも「男女の魂は入れ替わったりしない」が、私たちが大林宣彦の『転校生』含め、その点に「そんなバカな」と言わないのは、その状況に説得力やリアリティを見出せる(ように演出されている)からだ。

だから、『君の名は。』に「そんなバカな」を抱かなかった人たちは、「映像の抽出法」にリアリティを感じたのでないだろうか。私たちは脳内で短いシークエンスとして映像を組み立てることがある。その組み立て方自体の抽出と、普遍的な表象というセットが、日常行為としての妄想ヴィジョンに近かったのでないか。

カメラに写るものだけがリアルでない。そして肉眼を通して見る主観的な映像だけもリアルじゃない。この客観/主観という二項対立的リアルに対し、空想や妄想、脳内ヴィジョンにおける映像の組み立ても、私たちが普段、リアル(現実)に行っている経験である。

 

                  *

 

もし『君の名は。』が、結果的に〈寝る前映像〉の可視化となっているなら、これはすごいことだと思う。*5 *6

  • 2時間映画のオーソドックスな編集を逸脱したこと
  • 妄想の可視化でなく(それは今までたくさんの作品が仕掛けてきた)、妄想の構築方法(ショートシークエンスの羅列)を表したこと

がすごい。

焚きつけるような映像放射の作品は、今までにたくさんある。だからこそ、ショット単位でなく、小シークエンスの羅列を『君の名は。』(また『この世界の片隅に』)の特色として挙げたい。 

 

映画では園子温が『地獄でなぜ悪い』(2013)において、ゴダールらが散々やっていた「現実/虚構」を「妄想/現実」に置き換えてくれた(しかし、この点について述べた映画評はまだ見ない。また『シン・ゴジラ』のキャッチコピーは「現実対虚構」で、脈々と根付いている二項対立の文脈を愛する製作者、観客たちに支えられている)。

アニメーションにおいては初めから「虚構X/虚構」である。これが「脳内ヴィジョン/虚構」になるとして、そんなイカれた作品が、まだ日本から生まれてくれることがとても嬉しい。

 

                 ***

 

私は新海誠panpanyaを、〈ニュ〜風景論〉の人と思っている。新海誠批評、初期の言説「風景が主役であることを表すために、キャラクターを下手に描いている(or 下手で構わない)」は未だ続行中で、『君の名は。』では「風景以外の主導権が他者に託された」だけと思う。そして風景というのは、見る人の心理状況によって美にも醜にも変化するから、風景とシチュエーションは切り離すことができない。〈寝る前映像〉は心象風景そのもので、新海誠はその景色を描きたいため、描き続けたいためにアニメーションを作っている。

 

*1 ファッション系WEBコンテンツの映像ビデオにも、「捨てカット」はない。もはや私たちは映像をヨコの時間軸(一定方向に流れていく一連の時間を見るもの)でなく、タテの時間軸(モニターが次々と表示していく情報を積み上げるもの)として受け取っている。ショットの順番を多少入れ替えてしまっても成立する映像が多くなっているということ。

*2 『君の名は。』において、ここで先輩を救ってしまうと、ミツハエンドでなく先輩エンドになってしまう&糸の伏線を関係させたいので、映画において、先輩のスカートは切られる。

*3 ここに挙げたのは、サンプルである。特殊性癖の人はその嗜好に沿ったアイテムを、またいつも同じシチュエーションを妄想している人は、「先輩の救い方」がパターン化されているので、すぐに妄想モチーフが取り出せる人もいるだろう。 

*4 だからこそ、実写カメラが得意とする日常的所作をアニメーションで捉えてみせた『この世界の片隅に』の価値がある。

*5 記号的な状況表現としての〈寝る前映像〉でなければ、息を切らしながら走るミツハが都合よく転び、都合よくその弾みで目の前に置かれた手に書かれたコトバを見るなんて描写、どのように受け取ったらよいのだろう。ミツハとタキが出会う超空間も『ハウルの動く城』の超空間(ハウルが幼少期の姿でいる彼の心の中)の似せ型でしかなく、どのように解釈したら良いか私は分からない。

*6 〈寝る前映像〉と、彼らが「寝てる間に入替わる」という特徴を擦り合わせて考察したりは、私はしたくしない。