イメージアウラ——トーマス・ルフ、杉本博司、レン・ハンを経て(部分)

〈レン・ハンが亡くなった。トーマス・ルフ杉本博司の論考は、もともとレン・ハンについて書いたものだった。ここに一部を抜粋する。〉

 

 トーマス・ルフの展示に行くと、「写真を見る」のでなく、「見る写真」に立ち会うという現象に出くわす。

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2016年11月、写真をめぐる環境について、写真家よりも「写真展」について、そして「イメージアウラ」について、思うことを書く。

 

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杉本博司「ロスト・ヒューマン」 2016.9.3—11.13 東京都写真美術館

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トーマス・ルフトーマス・ルフ」2016.8.30-11.31 東京国立近代美術館

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○Ren Hang 「東京」2016.09.01—24 マッチバコ

 新宿・世界堂の脇に、夜までオープンしているギャラリーがあること、そこでアメリカン・アパレルっぽいタンブラー写真を展示していることを、その日のツイッターが教えてくれた。会場に行って驚いたのは、目の前にある写真より、iPhone越しに見る展示の告知画像の方が圧倒的に良いことだった。これは皮肉ではなく、ただここにある写真が最も威力を発揮するのは、PCブラウザやモニターを介した場というだけだろう。写真家の名はレン・ハンという。後で調べたら、いつもタンブラーで回ってくる画像の撮影者で、無署名で流れてくる画像に「写真家」がいたことを私はやっと知った。女の子の髪の毛を広げて、そこに大人しい鳩を五匹くらい並べたやつとか、多分皆も見たことがあると思う。

 

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 3つの展示を通して、私にとって最も有意義だったのはレン・ハンの東京展だった。私はギャラリーにいながら、自身のiPhone内のレン・ハンの写真に「イメージアウラ」があるのを見た。そしてタンブラー画像とひとまとめにしていたイメージが、実は「写真」であったこと、彼がハイパーなインターネット検閲国家・中国の作家としてあえてタンブラーを介すことで、「写真家」として無言の宣誓を試みていたことを知った。これはギャラリーで実際に彼のプリントを見なければ、気づけなかったことである。

 アウラとは、ヴァルター・ベンヤミンが提唱した、美術作品の「ほんもの」が有する「なんかやばい感じ」である〔*5〕。非言語的感覚をはらむため、批評家はもとより、私は自分以外にこの用語を用いる人物に会ったことがない。しかし「ほんもの」と「複製」が見る者に異なる印象をもたらすことは、美術の教科書に掲載された油画の画像から、重ねられた絵の具の凹凸を見出すことの困難さを思えば想像できるだろう。写真もまた、インターネットで見るか、写真集で見るか、展示室で見るか、それぞれが異なる視覚体験である。写真にしろ絵画にしろ、現物の作品が有するアウラをブラウザ越しに感じることはできない。だから、今まで作品のアウラが弱い写真家は、単にプリント技術が未成熟な者として扱われてきた。しかしレン・ハンの写真ではその逆転が起こっている。現物において貧しい写真が、ブラウザにおいてより貧しくなるのでなく、逆に魅力を有するという事態である。これは彼の写真が、ヴァルター・ベンヤミンが消失したと唱えながら、実は紙写真が有し続けた物質性に依存するアウラと決別しながら、構図とモチーフ、RGB特有の色調によりヴィジュアルとしての美しさを保つためだろう(そして彼が写す景色が、日常をちょっとだけ拡張させてくれるというインターネットのあり方と適合することも関係している)。発光するRBGカラーを味方にすることと、観客個人のモニターという、作家が直接介在することがない物質において立ち現れるアウラ、それが「イメージアウラ」である。レン・ハンにおいてはプリントよりもモニターで見るべきという反転状況がある〔*6〕が、もし自分のPCでRGBに変換された森山大道のフィルム写真を見ることができ、そこに美を見出したなら、それは「イメージアウラ」と呼べるだろう。

 無数のタンブラー写真の中から自身の作家性を屹立させようと企てていたレン・ハンの野心、そのためにRGBの発色を前提に制作していたであろう、作品を提示するインターフェースへの強い意識は、紛れもなく「写真家」のものである。自分の表現が、写真を外れるものなのか、写真を拡張させるものなのか、写真というメディアとの対峙がない作家は「写真家」ではない(だから発表形態に写真を使用していても、ソフィ・カルは写真家でなく、あくまでコンセプチュアル・アーティストである。そしてルフと杉本が、それぞれイメージとモノへどれだけ偏向しようが、写真について提起し続ける限り、彼らは「写真家」である)。

 

 2016年、写真を取りまく環境は変化し続けている。インターネットとスマートフォンが、「画像と写真」、「コンテンツと作品」の境界を今日も撹拌している。

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そして、レン・ハンである。写真をめぐる機運に反応する写真家たちに対し、私たちの写真について思考する土壌はどのように更新されているだろうか。私は、ほかの多くの写真懐古主義者たちと同様に、ブラウザの中に「写真」が潜む可能性に目を瞑っていた自分を恥じねばならない。私たちは、特定の写真作品以上に、イメージを取りまく環境について思考すべきである。今「写真」の価値は確かな「目」によって拾い上げなければ、画像の海に流されていってしまう。一体その目を持たず、刷新されていくレン・ハンやルフたちの写真をどうして「見る」ことができるだろう。「見る」目を持たない、見ようとしない観客は、来場者数という無機質な数に過ぎず、観客ですらいられないことは時代を問わない必然であるのに。 

 

 

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*3(省略)

*4(省略)

*5

「ある夏の日の午後、ねそべったまま、地平線をかぎる山なみや、影を投げかける樹の枝を眼で追う―これが山なみの、あるいは樹の枝のアウラを呼吸することである(『複製技術時代の芸術』ヴァルター・ベンヤミン)」

ベンヤミンルドルフ・シュタイナーのオカルト哲学の影響を受けた一人である。美術作品においては古さが有する歴史性とその唯一性、また好きな人の写真から感じる礼拝的信仰感などが、本書ではアウラとして挙げられている。

*6

レン・ハンと同じく紙プリントにおける意義を発動しない同世代の写真家、梅佳代は、彼と異なりブラウザで見ようと現物を見ようと価値が変わらないという特徴を持つ。またレン・ハンが、一般家庭用のオート・フィルムカメラを使用するよう、テクニックを手離した写真家たちにより、写真の魅力はより広範に押し広げられていくだろう。

 

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以上を改変したものを、下記に掲載頂きました。

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