東京トガリのトガみ

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東京トガリについて、解き明かすことはできない。

解き明かそうとすると発狂しそうになるところが数学に似ている。

 

東京トガリはすごいスピードでコンテンツ力を上げていくので、私の遅筆ではとても追いつけない。

 

Ⅰ 東京トガリtwitter(2017.4.22 初ツイート)

Ⅱ 東京トガリInstagram(2017.9.11 初投稿)

Ⅲ トガリ人形の登場(2017.12.8 ツイート)

Ⅳ トガリにリプライする人々

 

それぞれについて全力で書きたいが、悠長にやっている間に、トガリはまた新たなコンテンツを投下し、遠のいていく…(写真集の出版、トガリ人形の発売など、次から次にトガリ内コンテンツは積み重ねられていく)

 

ガリ

急いで書く。

 

 

<Ⅰ> 東京トガリtwitter

twitter.com

東京トガリの存在を知ってしばらく経つが、私は未だトガリのツイートを直視できない。

ガリのツイートがタイムラインに上がると、かつて感じたことのない気持ちが噴き上がり、受け止めきることができない。たとえば、

 

-「トガリくん、ちょとあち見て、うごかないでください」て言われたので、ピクリともうごかないように、がんばて、いき止めしました。

 

いき止め

ガリはこちら側の想定をはるかに超えていく。

おそらく、このツイートで私が悶絶死しそうになる理由は、

 

・トガリが息をする生物であると、息をしないはずのトガリ自身が述べていること

・トガリが動く生物であると認識している者が登場すること

 

この2点が水面下に伏せられた状態で(←ここが大切)

 

・トガリがいき止めをした

 

という情報が与えられるためではないか。

つまり、透明の真空パックに圧縮された色々と問いただすべき膨大な事象のエネルギーを暗に抱えているために、トガリ

 

-いき止めしました

 

に凄い圧を受けてしまうし、

 

-がんばて、いき止めしました

 

に、しかも頑張って!?という風に、「トガリがどのような生物か(こうした行為に頑張りを見せる性格である)」という情報がどんどん加算され、エネルギーの巨大さに圧死してしまうのでないか(写真から受ける情報量の多さ、破壊力も相当だ)。

 

圧死とは、思考回路がショート寸前になるということだ。私のキャパシティでは、トガリが発する膨大なエネルギーを受け取りきることができない。

 

 

そして、おそらくトガリは、表現における「人称」の問いを持っている。

たとえば、トガリにおける「私」とは誰なのか。

 

①トガリ

②トガリのアカウントを運営している者(実在)

③トガリのアカウントを運営している者(インターネット)

④トガリの言う「おとさん」「おかさん」というキャラクター

 

この①~④が渾然一体となり、かつSNSやインターネットにおける虚実の問題(インターネット内のハンドルネームの「私」と、現実世界の私は同一か否か)も組み込まれて、それらが巨大な混沌、エネルギーの塊となり、トガリが超的存在に感じられるのでないか。

 

また、トガリのツイートは、

 

-どちになるのか、たのしみです!

 

というように、トガリが思ったことをトガリ自身がツイートするスタイルを取っているが、ツイートの文章を打っているのは彼の保護者である(これは伏せられていることでなく、チャイルドの両親がチャイルドに変わってツイートしているくらいにフォロワーにも受け取られているだろう。トガリ自身が運営している設定のinstagramを見る限り、彼が漢字変換ありの日本語を打てるとは思えない。しかし、トガリが打っているゆえに拙い文章説を否定はしない)。

 

いずれにせよ、物理的なレベルで文章を打っているのは② トガリのアカウントを運営している者(実在)だ。これにより、親が子の気持ちを勝手に代弁する事態となり、W主体が生じる。移人称ならぬ重人称である。

 

そしてこの重人称により、次の印象がもたらされる。

 

A 自撮り感(W主体における)

B 人形の育成が子を亡くした親の擬似行為を思わせるが、セラピーがセルフプロデュースやマーケティングに侵攻している感

C 「だからコンテンツは生きているって言ったじゃん」感

D 動物の気持ちを人間がアフレコするやつの発展系

 

続けて書いていく。

 

A 自撮り感(W主体における)

ガリのツイート写真には、妙な自撮り感がある。

「トガリがシャッターを押していない」「トガリが写った」写真でありながら、ツイート内容がトガリの内声、モノローグなので、自撮りでないのに自撮り感が生じている(しかし、トガリにおける「自」とは…)。

 

B 人形の育成が子を亡くした親の擬似行為を思わせるが、セラピーがセルフプロデュースやマーケティングに侵攻している感

ガリのアカウントは、子のいない夫婦が擬似生育を行うスタイルを取っている。「おとさん」「おかさん」の子といった、トガリ以外の幼生は登場しない。

 

ガリ本体に使用されている、親近感をもたらすためのファブリックやビニール素材が、かつて子の代用として、服を着せた猫や人形を抱き、町を徘徊していた女性たち(私が最後にその存在を確認したのは二年前、九州でだ)を思わせなくもないが、そうした状態につきものの暗さのようなものがほとんど感じられない。

 

それは、トガリが失われた子、過去にいた誰かの代替でなく、トガリという生物種としての新規性とともに、唯一無二の新しい命として扱われているためでないか。

 

おとさん」「おかさん」がトガリを育成していることは設定上も明白である(そして、教育のためか、恥や躾に対するリテラシーが異様に高い)。 

人形を子とする不可思議さを持ちながら、冷静にアカウントやHPを運営する正常さを併せ持つ感が先駆性を感じさせるのだろうか。

 

子を産まない女性の理由に「私は、私を育てているから」というものがあるが、2017年、アイドルや、森に住む動物との関係性など、皆それぞれ好きなものを育てている。

シュヴァンクマイエルの「オテサーネク」や、長谷川愛のイルカをむしろ積極的に羨む人たちにとって、人間以外の養育対象は代替的なものではない。むしろ率先して選ばれ得るものだ。

 

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『オテサーネク』ヤン・シュヴァンクマイエル/『I Wanna Deliver a Dolphin…』長谷川愛

 

ガリは「オテサーネク」が人の目から隠されて育てられたのとは裏腹に、むしろ全世界に向けてその存在をインターネットでアピール、露出している。

そうした状況を受け入れられる人々が何か病症を抱えているとしたら、子の喪失からくる精神疾患ではなく、それはコンテンツに至る病である。

 

C 「だからコンテンツは生きているって言ったじゃん」感

黒子のバスケ脅迫事件」の渡邊受刑者が口にした「コンテンツを殺そうとした」という発想は革新的だった。

 

コンテンツを、殺す…?

当時、ちょっと意味が分からなすぎてスルーした人もいるかもしれない。

しかし、コンテンツが作品や成果物に取って代わるのみならず、いよいよ殺害対象として扱われ始めたたことにドキドキした人もいるだろう

オウム真理教によるサリン事件が、どの国よりも先んじた細菌テロだったと言われるよう、日本は犯罪において、時々謎のパイオニア性を発揮する)。

 

そして今、トガリである。

ガリの「おとさん」「おかさん」は、文字通り、トガリというコンテンツを育てている。

 

ガリSNSを生きている。

 

ガリの「生」を肉眼で捉えることはできない。それがマンガやドラマのキャラクターと違うのは、SNSが現実世界や日常に干渉する要素を持つためだ。

 

私たちは、インターネットが虚か実か、決められない。

ツイッターは、現実世界で起こったニュースや実名によるツイートと、「垂直」や「机」を名乗るアカウントによる「おなかすいた」というつぶやきが並列する。

それは、白黒の監視カメラの映像が、現実とは異なる光彩を持つために、記録映像=現実ではないことが表象の議論においては配慮されながら、「現実ではないが、現実でもある」という部分的な担保により、犯罪の証拠映像として信用されるような矛盾に近い。

 

コンテンツの死というと、人気が下火になること、「終わる」「オワコン」という状態になることをイメージするが、一方で人気があろうがなかろうが、コンテンツ自体は存在し続けられる。再生回数が0に等しいyoutube映像は、今日もインターネットの海を漂い、生き続ける。

ガリSNSという虚実のゾーンを生きている。

 

D 動物の気持ちを人間がアフレコするやつの発展系

ガリのツイートは、動物の心情をあれこれ勝手にナレーションする擬人化文化を思わせる。私たちは越冬するペンギンたちの姿を見ては、そこにセリフを当ててしまう。

しかし、動物は仕草によって、アテレコする内容のヒントを動物の方から与えてくれる。

羽毛を膨らませて、震えるように動いていれば、「さむ〜い」という声を当てたくなる。

 

しかし、人形のトガリは自ら何も発信しないため、動物においてギリギリ成立していた外見から内面を推測するという相互性も、トガリにおいては適用されない。

それでも、私たちはもはや、トガリが冬毛のペンギンを見て「ぺんぎさん、さむそ、だね!」と例の独自の口調(文体)で言うところを想像してしまう。このSNS生命体の内面を自動アテレコするとき、私たちはSNSに構築された過去の情報の根に絡まっている。

 

また、大人が子や動物を描写する際について回る「あざとさ」が、乗り越えられているような感じがするのもトガリの凄いところだ。

「カタコトで喋る」「幼い」という要素によって自動生成される「あざとさ」(この理由により、私は『よつばと!』が苦手だ)。

ガリは「あざとさ」を超えていく。あざとすぎて「あざとさ」どころでなくさせる、あるいはどの層に向けられた「あざとさ」なのかが不明なエネルギーのようなものがある(トガリにおける、通常レベルでの「あざとさ」は、「ゼビウス」や「岡村ちゃん」といったサブカルチャーへの目配せにある)。

 

以上が、東京トガリというアカウントから感じる私の印象だ。

虚実の境界が不明瞭なSNSというフィールドに、命を持たないはずの人形が生きるという状況が起こっている。それは言うほど簡単なことでなく、「おとさん」「おかさん」の手腕によるものだ。

広告業に従事していた人たちなのだろうか、私は彼らに弟子入りしたいくらいだ。Ⅱ、Ⅲ、Ⅳの凄まじさ… 。

しかしもはや力尽きてしまったので、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳについては大まかに触れるだけにする。

  

<Ⅱ> 東京トガリInstagram

www.instagram.com

 

ガリの写真には、

twitter→トガリを写したもの

instagram→トガリが写したもの

の2種類がある。

 

instagramはトガリの視点で撮られたという設定の演出的な写真である。トガリというSNS生命体の主観写真だ。

instagramの写真には、エフェクトフィルターが適用されている。主観の心象性が心得られている。

 

<Ⅲ> トガリ人形の登場

東京トガリ on Twitter: "「トガリ、自分であけてごらん」て言われて、あけたら、中に、ぼくがいて、びくりしました! https://t.co/QlJfqPxy5f"

ガリのツイートに、トガリと同じ姿の人形が登場した。命を持つ者と持たない者、写真において、彼らの姿は区別することができない

しかも、彼らの別れが「いまここ」的に演出されるということが起こった。2017年12月11日の夜、「ぬいぐるくん」との別れが分刻みで投稿された。SNSの即時性、臨場感が活かされた出来事だった。

その後さらに、「「トガリと「ぬいぐるくん」の2ショット写真」、の横に立つトガリの写真」がアップされた。

 

<Ⅳ> トガリにリプライする人々

ガリのツイートにつくリプライは感動的だ。

例えば、「ぬいぐるくん」との別れには、「また会えるよ」「さよならできて偉いね、がんばったね」といったトガリに呼びかけるコメントがいくつも寄せられている。

 

見る人によっては、茶番でしかないだろう。

しかし、茶番は神聖さを持つことがある。

 

私が彼らのリプライを見て思い出したのは、九州の大衆演劇を撮ったドキュメンタリーだ。劇中の人物が、同じく劇中の敵対者に刃を向けるのを、観客が泣いて止めるのだ。

  

映画やマンガといった作られたものが、フィクションからリアルに転換する瞬間、あるいはそれがいくらか持続した状態は得難いものだ。

 

以上が、2017年12月13日現在におけるトガリに関する観測メモである。 

予約受付中のトガリ人形が来年5月、購入者のもとに届いたら事態は確実にややこしさを増して進展するだろう。

 

東京トガリ

もはやこれ以上書くことはできない。

知らない間に、トガリのお正月絵まで描いてしまった。

凄まじいコンテンツ力である。