石内都――写真と被写体、それぞれの表皮

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石内都、実はちょっと苦手だったのだ。被爆した衣服、傷跡のある肌。彼女が選ぶ被写体は、それ自体がとても強いものだから、写真を前にして受け取る情動が、写真の力か被写体のエネルギーによるものか判断しにくい。

そのように分けて考えることの不毛さ、「被写体を捉えた写真」がただそこにあるだけなのだから、その一部分を切り離して分析したり、感じ取ったりすることのつまらなさも自覚している。だけど彼女の写真集を見て、どうにも心動かされないとき、それは被写体に対するこちらの腹づもりが貧しいのか、写真家との相性が悪いのか、はっきりさせたい気持ちにもなる。 

今回、横浜美術館石内都の写真現物を見ることができて良かったのは、彼女の写真をはっきり「良い」と感じられたことだ。鑑賞者のタイプとしては、写真集でも現物でも石内都の作品を好む人、写真集では良いと感じるけれど現物はそうでもない人、その逆の人、それぞれ趣向があると思う。ここでは、現物を見ることで石内都の写真に出会うことができた私の体験について書いてみる。

 

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まず、石内都の特徴といえば、表皮的モチーフの選択と、時間の可視化だろう。彼女の代表作「ひろしま」は原爆の被害を受けた衣服を撮影したもので、それらは、燃え、裂かれ、数十年経過した風合いを自ら体現している被写体だ。メキシコの画家、フリーダ・カーロや石内の母の遺品を撮影した「Frida by Ishiuchi」や「Mother's」でも、彼女たちの衣服が被写体に選ばれている。口紅といった立体的なモチーフも写しているが、それもまた、フォルム外面の塗装の欠けという表層から、その口紅が古いものであること、化粧机やバッグの中で愛用され、僅かな瑕疵を蓄積してきた時間を目に見えるかたちで表している被写体だ。

 

今回の展示で、特に現物を見ることの威力を感じたのは「ひろしま」だった。平面的な衣服が、写真という同じく平面にアウトプットされるメディアで捉えられていること、被写体(布)、写真(紙)、それらがともに持つ構造のディティールが浮き彫りにされ、鑑賞者が作品と向き合う状態が促されていた。そしてそれは、展示会場におけるもう一つの平面要素、「壁」によって引き起こされていた。

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単純な話だ。今回の展示では「壁」がとても際立っていた。分けられたスペースごとにテーマカラーが決まっていて、単色カラーが写真の背面に置かれることで、壁の平面性がとても強調されていた。展示においてスタンダードとされるホワイトキューブの白壁は、壁という存在をむしろ取り払い、空間を拡張させる機能を持つものだ。

 

これは写真集で作品を見るのとは、まるで異なる体験だった。もちろん写真集とは、作品のサイズも、眺める距離も違うのだが、何より本という形態が、平らなようで実は立体的なメディアであることと関係するだろう。紙一枚一枚は平面だが、ページをめくる際には凸といったフォルムが立ち上がる。小さいものは両手の中に▽の形を作って読まれる。それよりも、壁に一枚の紙が貼り付けられている、そうした状態の方が写真の平面性は伝わってくる。

また、写真集における組写真の一枚は、何十、何百枚もの一片として成立するものだ。組写真というシステムは、一匹では生きていけない蟻が、無数の蟻たちが営むサイクルに所属することによって生命を持続させるのに近い。写真一枚が、単独の状態で壁と平行に置かれた方が、やはりその平面性は感じられる。

 

一方、展示において違和感があったのは傷跡のある肌を撮影した「Innocence」で、フレームいっぱいに肌が写っているものは、その表皮と写真の平面性が調和しているものの、立体物である人物全体を写したものは、写真よりも被写体の存在が強く、両者が拮抗するというよりも、ある被写体をカメラが捉えている、という印象を受けた。そのことに問題があるのでなく、異なるタイプの写真が同スペースにまとめられている、そういう印象を持ったというだけだ。その印象が導くものもあるだろう。作品は至極真っ当で、写すものに対する石内の礼節が伴う視点が感じられるものだった。

 

写真集と現物展示、それぞれが異なる価値や性質を持つのは当たり前のことだ。重要なのはそれぞれの違いを受け入れながら鑑賞することだろう。特に石内のよう、作品コンセプトと平面性が関わる写真家においては殊更だ。彼女は人体や建築といった立体的な造形物も撮るが、布や皮膚、外壁といった表皮的モチーフを撮り、見つめることを慎重に行ってきた人である。

展示会場で石内の写真を見るということは、彼女の作品が持つ、表皮というもの、目に写るものを率直に見るという写真的行為や姿勢が、写真集で見るよりもずっともたらされる体験だった。

 

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以上が、石内都の写真を「良い」と感じるに至った経緯である。それは単純に、彼女の写真と初めて向き合ったというだけのことでもある。

 

そもそも、彼女の写真は二つの点でコンセプト的に消化しやすいという罠がある。一つは冒頭にも挙げた、被写体の力が作品の力にすり替えられやすいこと。被写体の威力が大きく、それらを直接肉眼で見ることと石内の写真を介して見ることの差が計りにくい。

二つ目は、被写体が布や肌、壁といった、写真と同じ表皮的モチーフに据えられることで「見る行為」を浮き彫りにさせる、そういう作品だと分かったつもりになり、実際に真摯に作品を見ることを怠りやすい。

罠もなにも、石内にまるで罪はない。要は見る方が気を引き締めなければ、チートが起こってしまいやすい写真ということだ。一方で、チートが起こりにくい写真というのは、別スペースに展示されていた石内初期のモノクロ写真「絶唱、横須賀ストーリー」だ。濃淡や陰影、見るべき多くの要素が差し出され、建築物、時間、痕跡、風景といった見出すことが可能なテーマのほか、荒れた粒子のぶつかるリズムにさえ、鑑賞者は見ることの楽しさが体感できる。コンセプトが、見ることの妨げを引き起こしはしない。

 

石内都という写真家が、自身のテーマに従属したり、縛られる必要は微塵もない。そしてだからこそ、私は最新作「Yokohama Days」に見入ってしまった。私はこれが、一番好きだ。タイトル通り横浜の景色を撮っているのだけれど、汚れた透明のガラス越しに風景を撮るといった彼女らしい表層への視点も含まれながら、そこで写されているものがあんまり瑞々しいので驚いてしまった。

展示スペースを用意してもらわずとも、写真集と向き合わない自分の怠惰を恥じるべきだろう。だけど、あらためて美術館で写真を見ることの豊かさも知ることができた。あとほんの少しだけ、展示は続く。「写真を見るという行為」がとても楽しめるから、横浜美術館への来館をぜひおすすめしたい。

 

3月3日 18時30分〜 石内都によるギャラリートーク

yokohama.art.museum