清原唯『わたしたちの家』と、よだまりえ「私の家」/諏訪敦彦『H story』

 

映画『わたしたちの家』について考えていて、清原監督の同級生、よだまりえさんの「私の家」を聴いていた。

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宇宙の中に小さい惑星(ほし)だ 緑と青の服を着てる 

辺りは霞 半径2ミリ そこに私の家があるの

一億二千年前の話 私はいったい何だったんだろう

 

「私の家」の歌詞は、このように始まる。自分の家、自分が暮らしている場所のはるか遠い過去の時間に「存在している私」に思いを馳せている少女の歌だ。

わたしたちの家』は、2つの時空間が共生的に描かれるという特徴を持った映画だから、よだの曲に登場する、自分の家の「自分が介在し得ない時間」について思いを巡らせる少女は、彼女の感性を反映した人物であるとともに、『わたしたちの家』を構想した清原監督のようでもある。

ほかにも世代が近い音楽グループ、相対性理論の曲に、目が覚めたら家が異空間を飛んでいて、それでも漫画雑誌・スピリッツが読みたい欲求を持つ、つまりかつての空間における日常性を維持し続ける女の子や、自分が幽霊(異なる時空間の存在)かもしれないと問いかける女の子などが登場する。

清原監督も、こうした感覚が世代的な共通認識でもあることにインタビューで触れている。『わたしたちの家』の脚本は、同級生の加藤法子さんと書いたものでもある。

清原 同世代とか若いひとたちに観てもらいたいです。この映画はわたし自身が生きている感覚をもとにして撮っているのですけど、ある友人にわたしたちの世代の感覚を持っていると言われたことがありました。

 

だから『わたしたちの家』の魅力については、この重層的空間表現という視点よりも、それがどのように映像、映画として昇華されたのかについて議論されていくべきだろう。

その上で懲りずにまだ、この視点に関係して考えておきたいことがある。そのための比較として挙げたいのは、清原監督の師でもある諏訪敦彦による『H story』だ。

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わたしたちの家』と『H story

H story』は、マルグリット・デュラス脚本、アラン・レネ監督の映画『二十四時間の情事』(『ヒロシマ・モナムール』)のリメイクであり、同時にそのリメイクを撮ろうとする人々を捉えた映画である。この作品は、ドキュメンタリーとフィクションの境界についての思考を促すが、時空間の重層性をテーマにもしている。

H story』と『わたしたちの家』の共通点は、ある場所の、異なる時間に注目しているところだ。前者には、アラン・レネと諏訪による広島(正確にはアラン・レネの映画内の「広島」)という場所と、それを2人の監督が捉えた時間がある。後者には、清原による2つのバージョンの家の時間がある。

まず、彼らの作品の比較から感じられるのは、場所に対するスケール感の違いである。日本/広島という土地の大きさに対して、家である。諏訪は必ずしも『二十四時間の情事』のショットと同じロケ地であることにこだわっていない。それにもかかわらず、広島の町をさまよう異なる人種の男女の姿により、『H story』におけるショットがレネの映画における「広島」という場所を踏襲していることが分かる(それに『二十四時間の情事』に写り込んでいた魅力的なカフェは、もう現存していない)。

対して、清原における2つの場所は、即物的な意味で正しく同一の家である。諏訪が広範な「広島」という土地を提示するのに対し、『わたしたちの家』は具体的な建築物の内側を舞台にしている。

時間においては、次のように比較できる。『H story』はそのタイトルが、ヒストリー(歴史)を暗喩するよう、レネ、それから諏訪の時間といった、過去から現在に一方向的に進む時間の蓄積を前提にしている。それはこの映画を観る者に、1945年8月6日、それ以前、以降から流れ続けている時間の延長線上に、現在という時間があることを自覚させる。

これに対し、『わたしたちの家』における時間は多層的である。映画という表現上、一つの時間軸に沿ってシーンが並べられているものの、2つの舞台を構成するショットは同一の時間を描いていると捉えられる(それは作品後半、決定的になる)。また、監督は次のように発言してもいる。

家という場所を共通させ、一つの家の中でいくつもの話が同時に起きている。

 

つまり、『わたしたちの家』における時間、場所は局所的だが、この形式を取ることにより、同一のものの異なる姿の可能性を提示している。この視点が、複数のモニターを使用するメディアアートや、固定的な時空間に縛られない詩といった方法でなく、あくまで一次元的時間の制約を持つ映画の時間に対し適用されることが、『わたしたちの家』という作品の一つの魅力であるだろう。

2013年に正式運用が開始されたARゲーム「Ingress」は、自分が住んでいる町をスマートフォン越しに現実とは異なる視覚性を介し知覚するもので、そのキャッチコピーは「あなたの周りの世界は、見たままのものとは限らない」だった(「Ingress」は2018年10月に日本でアニメーション化される)。

ダウンロード数2000万回を超える、このゲームのプレイヤーが世界中にいることから、自らが暮らす世界を多層的に捉える感覚は、やはり共振的なものだといえるだろう。このときゲームと映画で成される表現の違いとして、ゲームは制作者があらかじめ組んだプログラムが現実の時空間に乗算されるのに対し、映画は、作り手が何を撮るかという恣意的な自律と、その作為を越えてカメラが捉える他律の交わりによる世界の提示というそれぞれの特徴を挙げることができる。それに映画は結局、「見たままのもの」「聴いたままのもの」をたぐるほかないメディアである。

この世界の片隅に』と「私の家」

H story』はもう一つの『二十四時間の情事』と言うことができるが、その重層性はレネという兄の背を弟が見つめるよう兄弟的なものであるのに対し、『わたしたちの家』の2つの時空間は双児的である。

H story』と『わたしたちの家』、2つの作品の比較からは、作り手の世界に対する尺度の違いのほかに、時空間に対する時代的変容の影響が感じられる。現在「わたしたち」が干渉可能な場所は、家、東京、広島、日本と横に広がっていくというよりも、縦の空間や選択肢に向かってベクトルを伸縮させているように思う。

昨年公開された、戦時下の広島を舞台にしたアニメーション『この世界の片隅に』も、丁寧に「家」を見つめた作品だった。戦中の暮らしや日常生活のディテールが作画、演出両面で丁寧に描写され、原作との違いとして指摘される主人公ともう一人の女性キャラクターの性に関する描写が省かれたことも、戦時の広島での生活により注目しているよう感じられた理由かもしれない。

この世界の片隅に』を観る時、私たちはフィクションのキャラクターを介して、現実の広島という場所、その過去の時間に目を向ける。漫画やアニメーションといった階層の置換を経なければ、広島という場所に近づくことができなくなっているのかもしれない。しかし、裏を返せばそのようにすれば、かつての広島と「わたし」の時間と場所に寄せることができるということだろう。冒頭に挙げた、よだまりえは「私の家」でこんな風に歌っている。

一億2千年前の記憶 どこで眠り続けてるのかな

 

記憶は、「過去」の時空間を「現在」の私が捉えることで生じるイメージだ。かつて実際にあった、しかし自分が見たことも体験したこともない一億2千年前という時間と場所に思いを寄せるということ、それが73年前に広島という地に起こった出来事と、2010年代を生きる「わたし」との接近を引き起こすかもしれない。

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