『素晴らしき休日』は、北野武の映画(3分)だ。
カンヌ映画祭からの依頼「映画館をテーマにした3分間の映画」のために、この作品は撮られた。
この3分間の映画は、2時間の映画と変わらない映画的エッセンスに溢れている。
先日、この作品を友人と観たとき、私よりエドワード・ヤンの作品を理解するその人が、私のようにはこの作品を観ないことが分かった。
私は自分の映画の見方に不安を感じたので、ここに解釈を書いてみる。
『素晴らしき休日』、つまりは映画を「観る」ということを私はできているのだろうか。
http://shortsbay.com/film/one-fine-day
C1
映画が作りもの、虚構であることを伝えるファーストショット。空/青、草/緑、道/線。雲、山、花というシンプルなイラストレーションのような画面構成が「絵に描いたような」景色を生み出し、リアリティよりもフィクショナルな印象を観る者に与える(田舎を舞台にすることで、現実にギリギリあり得る風景に設定している)。さらに手描きのタイトルが重ねられ、「描かれた景色」感がより増す。
道の向こう=スクリーンの奥から、映画の中の住人=キャラクターがやってくる。
(男が登場し、建物前に自転車を止める)
C2
(男、映画館の受付でチケットを買う)
C3
犬、「お座り」のポーズをしている。
(犬、映画館内に繋がれている)
C4
「お座り」をしている犬と、座席に「座っている」男。彼らの相似は引き続き示される。
(男、タバコをふかす)
C5
男が後方を意識することで、スクリーンと映写機が関係していること、両者を結ぶ空間内に観客がいるという構図が示される。
(男、「始めます」の声が鳴る後方を振り返る。館内暗くなる)
C6
映画内映画のキャラクター2名が、自転車に乗っている。
(映画『キッズ・リターン』が上映されるが、途中で映像ノイズが起こり、画面が白くなる)
C7
カメラのファインダー、およびスクリーンを思わせる四角いフレームの穴から光(=映画)が飛び出ている。その後、同じフレームから映画を作った本人、映画監督(北野武)の顔が見える。光=映写技師=映画監督(映画作品=映画を上映する人=映画を作る人)という一致が示される。
(映写技師、フィルムを整備する)
C8
タバコの吸い殻が時間の経過を示す。
(複数のタバコの吸い殻が、男の足元にある)
C9
男=観客が持つタバコ(観客の息吹を可視化するモチーフ)は、白煙、火種、炎の要素を持っている。
(男、タバコを吸いながら上映再開を待つ)
C10
強すぎる光(やりすぎた創作、映画)は、熱、炎となり、燃え、壊れ、作品を見ることができない(成立しない)状態にしてしまう。
カメラはここで、全ショット中、唯一動く。カメラは観客である男に近づき、男もカメラの方を向く。映画の危機において、両者は接近する。映画消滅の危機に反応する男は、映写機の光にやや照らされる。
(映画は再開するが、途中で止まり、フィルムが燃える。男、後ろを振り向く)
C11
映画監督は作品を救おうと風を起こす。映画監督の顔、映写機の光が、四角いフレームで切り取られている。映画を作り出す彼らは作品そのものであること、作品同様、カメラで切り取られ、「見られる」存在であることを示す。
映写機による強い発光=白煙と、男によるタバコの火=白煙は、ともにフィルムを焼く要素を持っている。作り手も観客も、どちらも映画を壊してしまうエネルギーを潜在的に持っている。
(映写技師、燃えるフィルムの火を消そうと映写機を扇ぐ)
C12
犬の前にタバコと同じ配色、黄土色と白色をしたパンが投げられる。
(犬、映画館内に繋がれている)
C13
同じ色のモチーフを犬と男が持つことで、2体が似た存在であることが示される。それぞれ柱、イスと、映画館を構築する要素に従属してもいる。無言の犬(作品の内容を解さないあどけない存在)と男(内容を理解する脳を持つ)は、2つの観客の姿である。
(男、ちぎったパンを投げる)
C14
(男、再開した映画を見る)
C15
男の後ろに後光のような映写機の光がある。映画のクライマックスにおいて、光=映画と、男=観客は重なる。
(男の顔)
C16
(エンドロールが流れ始める)
C17
再び、男と映写機の光が重なるが、映画が終わったため、光はさきほどの半分ほどに薄れている。
(男の顔)
C18
(エンドロール)
C19
映画内キャラクターの男の自転車が消えている(映画を観ている間に盗まれたと解釈できる)一方、自転車というモチーフは、映画内映画である『キッズ・リターン』に登場している。このことは、虚構である映画と現実の相互関係を示唆する(映画は虚構であるが、現実世界の観客の心を変化させるし、現実に起こった事件や環境が、映画には反映される)。
(映画館から出てくる男。自転車を探すように首を動かす)
C20
ファーストショットと同じ構図の寄りであるラストショット。「観客」は映画全編を見ること=内容を共有することで、この作品の内容、世界観に親しんだため、カメラがやや近づいた。
カメラは上空に上がっていき、生身の人間では見ることができない=カメラでしか捉えることができないアングルへとますます位置を変えていく。ゆえに、このアングルは、カメラの視点=映画、この作品を観ている「観客」の視点である。
男は誰かに見られている視線を感じるかのように、不審そうに振り返る(映画内映画を見ていた映画内キャラクターが、自分も誰かに見られているのではないかとカメラの方を見る)。この映画の主人公、映画を観る観客は、この映画を観ている「観客」、私たち自身でもある。
日暮れの色彩から、男が映画館に数時間滞在したこと、空白時間を挟みながら、『キッズ・リターン』を全編観ただろうことが分かる。男が体験した空白時間はショットとショットの間の余白、映画の編集構造そのものである。
映画内キャラクターは、道の向こう=スクリーンの奥へと去っていく。
(男、来た道を歩いて帰る。振り返り、首をかしげる)
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この映画は、映画の映画である。
「映画は作られた虚構であるが、いかにして私たちの現実と重なり、互いに影響し合うか」がテーマだ。
この作品には、観客、映画チケットを販売する人、犬、映写技師、映画内映画キャラクター(『キッズ・リターン』の役者)が登場する。
映画内映画として、現実に存在する作品(『キッズ・リターン』)を、その作品の監督である北野武が映写技師として上映している。
映画内映画を観ていた観客の男は、ラストにおいて、ただ直感的に視線を感じて振り返る。このとき、この観客を見ている観客である私たちは、彼という観客自身であり、かつ映画内キャラクターである存在に見られている。
映画と現実は相互的な関係を持つことが、映画内映画と観客<自転車のモチーフ>、観客と私たち<振り返ってこちらを見るキャラクター>、映画内映画を上映する現実世界の映画監督によって示される。
以上である。
私がここに述べたようなことは、映画感想サイト、Filmarksなどに書かれていない。
私は映画を「観る」ことができているのだろうか。
皆は映画をどのように「観ている」のだろうか。
https://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=15189
https://filmarks.com/movies/24361