長渕剛の歌詞に、移人称のものがある。そしてその移人称は〈歌われる言葉〉を聞くのでなく、〈書かれた言葉〉を読むことによって生じる。突然だが、このことについて述べていく。
長渕剛『RUN』
まず、長渕剛の『RUN』を聴いて欲しい。
それから、歌詞を読んで欲しい。
同じ歌詞でも、聴くことと読むことで人称の印象が変わらないだろうか。
私は初めて『RUN』を聴いたとき、1番の歌詞は男性主体、2番の歌詞は女性主体だと思った。つまり、登場人物が男性と女性、2人いると思った。それは歌詞の内容や言葉遣いから想像したことだ。
-賽銭箱に 100円玉投げたら (1番)
の粗雑さから男性を
-信じてみようよ 信じてみましょうよ (2番)
の語尾から女性をイメージした。そして続いて2番の歌詞に登場する
-頭もはげてきた (2番)
で違和感が生じ、ここで再び男性人称に切り変わるのか? 女性のままなのか? いずれにせよ壮絶な生き様だ、とこの曲を捉えてきた。
しかし、いざ1番から続けて歌詞だけを読んでみると、なんてことはない。全て男性の一人称と読み取れる。私が女性人称と勘違いした2番の歌詞冒頭の
-信じてみようよ 信じてみましょうよ (2番)
の「よ」は、男性もまた時折使う、自分や他者に言い聞かせる強調としての「よ」に感じられる。だが、しかし、この段落は移人称的ではないか。
『RUN』2番の歌詞
-信じてみようよ 信じてみましょうよ
-くやしいだろうけどね
-信じきった夜 あいつの悲しみが
-わかってくるのは なぜだろう
この段落だけを文字で読むと、「よ」と同じく「ね」の女性語により、女性が主体の歌詞のよう感じられる。しかし、1番の続きであることを踏まえれば、やはり1番の歌詞に登場した男性が自分自身へ言い聞かせるために「よ」や「ね」を発話しているだろう。
そして、自分で自分に語りかけるという行為は、自分を他者として捉える姿勢であるため、男性一人称の中で2つの立場が生じた状態である。
ここに出現した、男性に語りかけるもう一人の男性が、女性を信じる、女性語を使う、女性になるという移人を果たした時、
-あいつの悲しみがわかってくる
という、他者の人称を獲得した時にのみ可能な「その人の内なる気持ちが分かる」という状態になったことが示される。この辺りが移人称的である。
『RUN』2番の人称
実際のところ、2番の歌詞冒頭は、男性と女性どちらのものなのだろう。
歌詞を読むのでなく曲を聴く限り、私には女性の、それも曲中の男性が信じようとしている女性のものに感じられる。
それは、私が長渕剛の『純恋歌』などを聴きすぎて、男性である長渕が歌う女性人称の言葉に慣れてしまっているからかもしれないし、「賽銭箱に100円玉投げたらつり銭出てくる人生がいい」と願う男性が思いを向ける女性が、男性を「あの人」や「あなた」でなく「あいつ」と親しみを込めて呼ぶ姿を想像をしてしまうからかもしれない。
まとめ
J-ロックや歌謡曲というものは、基本的に話し言葉先行の文化だと思う。
歌詞カードで文字を読むより先に、街角やテレビ、ウェブサイトで曲を聴く機会が多い。そして自らも歌う意志を持った者だけが、歌詞を読むという体験をする。
私が今回、長渕剛の歌詞に移人称を発見をしたのは、『RUN』を歌おうとしたからだ。長渕がよく男性の声で女性人称を歌うように、男性人称の歌詞を私が歌うこと、低音が出せずに上手には歌えないこと、そういう体験をしてみることが、実生活において移人称が生じる困難さ、人称というものの超えがたさ、だからこそ心惹かれる移人称の魅力を知る手がかりになるのではないだろうか。
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蛇足だが、同名のテレビドラマ『RUN』の主人公は長渕本人が演じている。そのキャラクターの服装で、彼が『RUN』を歌うというメタフィクション的な映像がある。
それも十分に魅力的なのだが、『RUN』主人公のトレードマークに似た帽子をかぶった状態で、長渕が自らの代表曲『とんぼ』を熱唱する状態にも惹かれる。
<追記>
話し言葉と書き言葉で男性女性、2つの人称が共生すると書いたのだが、そもそもタイトルの『RUN』が、音で聴けば「ランララララ」、文字で読めば「RUN RUN RUN…」と、鼻歌のような調べと、言葉の意味とを両立させるものだった…