LUMINEのコピーが苦手だ、PARCOのコピーがいい。
ということを、ここ数年ずっと思っていた。と同時に、これは単純にマッチングの問題で、私がLUMINEがターゲットとする女性像に含まれないだけで、時代の潮流はLUMINEにあるんだよな、ともLUMINE広告を見かけるたびに思っていた。
というように感じる人は、当然私以外にもいて、最近のPARCO・西武の広告は、かつて西武が栄光を極めた時代のコピーが好きな人が作っているけれど、やっぱりあれだけの胆力を発揮できる人は中々いなくて、今のような状態になっているのだろうと思っていた(PARCO・西武は、現在は異なる系列にあるけれど、彼らがともに参照しているだろう西武広告の黄金時代、70-80年代時は同系列の企業だった)。
ところが、ちょっと違うのかもしれないな、と気にするきっかけになったのが、西武2019の元旦広告である。
これは2017年に樹木希林、2018年に木村拓哉、2019年に安藤サクラを起用、共通コピー「わたしは、私。」とともに作られた連作広告である。昨年までは、「私」のイメージ像が誰であるかモデルの顔写真によって明示されていたが、2019年版ではモデルの顔が隠されているため「私」=具体的な人物でなく、「私」=女性(それも顔に白いクリームが叩きつけられている女性)という抽象的な印象が強い広告となった。
これは先日、私が違和感を持ったPARCO2018の秋冬広告と同じ問題を抱えている気がする。「誰のための広告なのか」「これを見た人はどのように感じるか」という受け手の感性が発信者の中にないとき、このようなことが起こるのではないか。
PARCOは2018の秋冬で、それまで4年間ディレクションを務めたM/M Parisを解任、男性4名を抜擢した。彼らは明らかにPARCO黄金時代のレイアウト、コピーを模している。
過去の作品を模して成功ならば、引用は歓迎だけれど、私はPARCO2018秋冬のコピーが端的に言って嫌だった。それには3つ理由がある。
●「私は裸になれる」と思う
●裸になれない=服が必要=PARCOで服を購入、という企業的メッセージが露骨すぎる
●「裸を見るな。裸になれ。」という過去のコピーをふまえた、「私は裸になれない。」というアンチテーゼを現代のコピーとして使用しながら、レイアウトは当時の型に寄せる行為の意義が不明
文章では、女性の境遇におけるネガティブな内容と、それらと向き合おうとするポジティブな姿勢について書かれており、視覚イメージとしては、このプレゼンター(広告の発信者)が最終的にアピールしたい面=ポジティブな図を描写すべきところ、なぜかネガティブな状況を示すヴィジュアルが採用されている。
これは顔面をクリームで覆われている女性の図(そもそもアマリア・ウルマン風に言えば、女性の顔に置かれる白い粘着性のある物質は精液のメタファーである)が、不快かどうか、という問題でなく、単純にデザインのロジックとしておかしい。
また、視覚表現における文字と図の関係においても、左下の文章で綴っている内容を図でも重複して表すというのは、電化製品の取扱説明書などで行う方法で、「表現」としてのクリエイティビティを重視する広告デザインの場で行われるのもどうなのか(その方法では、本来文字と拮抗するべき要素である図が、文字の補助機能に成り下がってしまう)。
以上をふまえると、この広告における図は、文字で書かれているネガティブな印象を単に説明するためのヴィジュアルとなっており、あまり有機的な表現ではないと感じる。
PARCO2018秋冬の広告については、ディレクションした男性たちのインタビューがWEBに掲載されている。そこでは彼らのクリエイションに関する事柄が語られているが、肝心の広告の受け手側である女性に対するアプローチがまるで述べられていないことに驚く(せっかくの補完チャンスなのに)。
一方で、私が苦手だったLUMINEのコピー、こちらの方はずいぶんちゃんと作られている。
相変わらずコピーに同調はないけれど(これは私がLUMINEのターゲット層でないというだけで、彼らの仕事の良し悪しとは関係ない)、たとえば2018年春のポスターでは、通常、女性向けのファッション広告には使用されない太型ゴシックフォントを居丈高な女性像の演出として採用したところに、きちんと「挑戦」と「刷新」がある。
こちらもクリエイティブに関わったメンバーとして女性4名が名を連ねているが、むしろ広告表現として筋を通った仕事をする70年代のエネルギーは、こちらの方に受け継がれているのではないか。古き良き時代のPARCO厨の私だが、このようなLUMINEの仕事にはきちんと拍手を送りたい。
■そごう・西武2019元旦広告の課題
近年、特に昨年2018年は、「女性」というワードが取りざたされ、なにかと話題になることが多かった。そのとき、女性の立場について思考する人が「フェミ」「フェミニスト」など呼ばれたが、一向「ウーマンリブ」というワードは登場しなかった。
「ウーマンリブ」という言葉自体は、60年代後半に起こった女性解放運動を表すもので、その派生として、日本では70-80年代にかけて女性主義的な人々を表す総称として使われた。そのため、当時の日本カルチャーが好きな人たちにとっては身近な言葉でもある。
石岡瑛子らによる70年代のPARCO広告が打ち出す女性イメージは、日本的「ウーマンリブ」の代表格のようなところがあるのだが、そもそもこの言葉が廃れた背景には、「ウーマンリブ」という姿勢がこれまで女性的でないとされた事柄(主義主張をはっきりと述べること、公共の場で裸になることなど)をより強調して行うという不自然さを強いる側面を持つために「なぜ女性であることを訴えるために、わざわざ裸にならないといけないのか。ナチュラルでいたい」という女性たちの当然の感想によって自然消滅したという事情がある。
その後、90年代には田嶋陽子らが代表するような「キャラクターとしての「ウーマンリブ」の消費」があり、女性たちはこれに沈黙によってつき合った(誰かが「ウーマンリブ」然とふるまったり、「ウーマンリブ」を演じたりすることもまた、当人の自由だからだ)。
こうした流れがあった後における、そごう・西武2019の元旦広告である。この広告には、①広告デザインとして(前述)、②日本における女性のあり方を問うものとして、課題がある。
②について言うと、今回の広告に用いられた文章は、80年代にはすでに生じていた「ウーマンリブ」や社会に対する違和感を言語化したものだが、そうした内容を文脈も匂わせずに提示することで、文面にある状況を現代の女性が抱える課題として「普遍化」してしまったことだ。
40年も前に日本の女性たちが抱えていた状況をエクスキューズなしに現在の状況として提示すること(あるいは、40年間まじで気づいていなかったのか?)、それを広告として打ち出すこと、女性とは、そういう(問題とともに生き続ける)ものであることをメッセージとして発信しているような事態である。
さらには、この広告の賛同者から「こういう問題があるよね」という普遍印を押されるような状況が生じている。本来、ファッションや生活用品とともに女性が生き、暮らす時間を活性化させていくことを促進していくはずの企業から、不可思議なメッセージが突如提起され、まさに面食らった、というのが率直な感想である。
たとえば1年前のLUMINEのコピーは、「わたしはカモメ」でなく、「こちらはカモメ」である。私という女性的一人称に縛られない視座にすでにある女性のイメージ、今年のそごう・西武広告が文章で書いていた内容を、ヴィジュアルと短文で端的に表現している(これこそがコピーの力だ)。
■ポスト・ウーマンリブの空白
当時PARCOの広告で、石岡瑛子を筆頭に体現されてきた「ウーマンリブ」的な女性像には、女性は弱いものであるというイメージをくつがえすような鮮やかさ、力強さがあり、ひいては逆説的に男性的とされるような印象を生み出すことで、既存の女性観や性差を超越するという取り組みがあった。
昨年までの2017年、2018年における、そごう・西武の元旦広告が少なくとも失敗でなかったのは、この石岡広告の延長線上として、年老いた女性(樹木希林)と男性(木村拓哉)という、年齢も性別も超えたエネルギッシュな存在を、企業メッセージに重ねて打ち立てることができたためだろう。
LUMINEが現代を生きるフェミニンな女性をターゲットに広告を推し進める中、PARCO、もとい西武は、ストレートに女性を被写体にしたとき、かつての「ウーマンリブ」に変わるだけのパワーワード、イメージ像を打ち出せていない感じがある。
石岡瑛子、小池一子、山口はるみ、成瀬始子、藤原新也、田中一光…彼らの甚大な仕事と並ぶためには、なにより時代の核をつかむ必要があるだろうが、それ以前の問題として今回の元旦広告には「誠実さ」が欠けているような気がする。図と文章、また、テーマ(そごう・西武の顧客である女性)と方法(デザイン)においても、不誠実なところ(リサーチや気遣いの不足)があったと思う。
コピーという「言葉」に対する、受け手の「言葉」による応酬は、いつまでも堂々めぐりだ。だから図、視覚表現は重要である。ただ扇情的なばかりの図ではなく、図と文字の関係において扇情を発揮する広告デザインを、かつての石岡たちの仕事からは感じることができる。彼らによる広告デザインは、未だにエネルギーに満ちている。
言葉の内省性に対し、写真や映像は、言葉と組み合わさることによって、片方の領域だけでは表現することができなかったイメージを創造することができる。そのようにして生まれる広告デザインが、これからも私たちの生活とともにあるとよいな、と思う。