こんっっなに夢中になったマンガは……発売日当日、日付が変わった瞬間にマンガを買うなんて初めてだ。『最後の遊覧船』。洋子はカモメで、祐子はフネで、船長は、というくどい話はこっちに詰めた。ここでは、マンガにおける時間の描き方、めちゃくちゃに痺れた「決め画の数フレーム前」のコマについて書く。
まず、マンガのコマは静止画だ。最近はモーションコミックとして動くGIFマンガもあるが、基本的にマンガのコマは止まっている。その静止したコマの中でいかに動きを表現するかという苦心は、多くの漫画家の関心ごとだった。
走っている風速の勢いを表す、いわゆる足元の渦巻きという表現は、止め絵として様になる形態として発展していった記号である(図1) *1。
なぜこうした記号を生み出す必要があったかというと、同じ絵だからと言ってイラストやポスターといった静止画の絵をそのままマンガに当てはめると、一つ一つの絵のクオリティは高いものの、どこか読みづらさが出てくる。
たとえば、スタジオジブリのシネマ・コミックのように、人気のアニメーション映画はのちにその作画を転用してマンガとして販売されることがあるが、それらの絵はマンガのコマの流れを前提に作られたものではないため、絵コンテを読んでいるようなぎこちなさがある。
イラストにはイラストの、アニメーションにはアニメーションの最適解の絵がある。そしてマンガのコマ絵は、それ一つで成立するものよりも、前後のコマ絵との関係性があって一番に威力を発する絵が描かれる。コマの連なりとともに時間的展開を描くストーリーマンガにおいて、動き=時間の描写は重要である。たった一コマの静止した絵においても、時間を含む絵は強い。
すぎむらしんいちもまた、この時間を感じさせる絵が抜群にうまい。次のコマからは、船長が主人公・洋子のライフガードを掴んだ力みにより、少し洋子の体が船長側に引き寄せられ、その反動として浮く髪の様子といった、一連の動作とその時間の流れが感じられる。
その上で、今回注目したいのは、このコマである。 これは「動いているように見える」絵でなく、「動いている」瞬間をそのまま絵にしている。
デジタルカメラで1秒間を30フレームで撮影すると、そこには30枚の選択可能な画が生まれる。その30枚の中にはスチルとして使用できそうな「決まった」画と、そうでない画がある。すぎむらがここで描いているのは、その、そうでない画の方だ。
図2が瞬間を捉えた絵といえど、それがセリフの発話時間の数秒の印象として読み手に伝わってくるのに対し、ここでは1秒未満の数フレーム、それも決め画の前後の通常なら切り捨てられる瞬間を描いている。
そうすることで、機械合成もされていないフレーム単位での一瞬間を描写している印象が生じるとともに、作品全体に散りばめられた映像的演出をふまえると、デジタルが身近になった読み手の体感に働きかける同時代的な描画に挑戦していると受け取れる。
ところで、この「動いている」状態を留めた瞬間を描いた先例に『風と木の詩』(竹宮恵子)がある。終盤ゆえ詳述は避けるが、絶対的な容貌を特徴とする(いわば30フレーム全てに隙がない)主人公が、あっという瞬間に、はかなくなる表現に用いられていた。それは、それまでの主人公のゆるぎない姿との対比として、小さなコマにも関わらずおそろしく際立っていた。
同じように瞬間を扱った表現でも、作品によってその役割は変わってくる。
『最後の遊覧船』もまた、主人公たちが美男美女という容姿の設定を持つが *2 、一方で、フレーム単位で停止したときの表情の整わなさや、間の抜けた様子(図4)を選出してたびたび描くことで、キャラクターたちの人間らしさを描写している。
どうにもキマらない人間の姿を描くのがすぎむら作品の魅力だが、すぎむらによる瞬間の描写には、作品のテーマを、セリフではなく絵で語るという、視覚表現としての矜持がある。
決定的瞬間たる決め画からこぼれる人間の側面を、視覚表現によって語る豊かな描写が『最後の遊覧船』には満ちている。
*1 風速の勢いを示す渦巻きの初期の例に「ルーニー・テューンズ」などアメリカのアニメーションがあるが、ウィンザー・マッケイしかり、アニメーションの黎明期はマンガ家(風刺画家)がアニメーターとなるケースが多く、マンガとアニメーションは動きの表現を並行的に発展させていったといえるだろう。
*2 多様な人物描写に長けた作者があえて美男美女のキャラクターに挑んだ作品として、作者と漫画家・浦沢直樹が対談するTV番組『浦沢直樹の漫勉neo』で語られていた。
(追記)*3 トム・ガニング『映像が動き出すとき』を読んでいたら、「第1章 視覚の新たな閾」(2001)に、この「決め画の数フレーム前」に通じる魅力について書いてあった。2人の映画の発明者、エディソンはスタジオ内で軽業師にポーズを取らせ、記号的なキャラクターと人工的な空間を撮ったのに対し、リュミエール兄弟は屋外の日常的な風景、それも絵では描かれないような「醜い運動」(間抜けな瞬間)を撮ったことについて書かれている。「醜い運動」は絵画にあまり見られなかった絵面ゆえ、写真というメディアの固有性が感じられたともいう。
飛ぶというアクションにおける、制御できない身体性を捉えるというリュミエールの視点をすぎむらも持っている。しかも、この悪ノリと紙一重の感覚が当時すでに怒られの対象になっていたという。