モネと写真。鈴木理策の《水鏡》

 

モネと写真のつながりを知ったのは、松浦先生からだった。

 

十何年前、ムサビ学生課下の大教室で、先生は全学科生に向けて美学の講義をしていた。仲間内の情報交換でめっぽう面白いのは103だと聞いてから、単位の申請はしないまま木曜日は一号館に通うようになった。

 

松浦先生の授業はまじに実りがあった。とくにモネとファインダーの話は、写真をやっていた私に刺さり、今もまだ刺さったままだ。

 

それはモネの連作のことだった。モネは睡蓮を250、積み藁を25以上描いていて、ルーアン大聖堂もだけど、同じ対象を描き続けた。そして、ほとんど同じ構図、あるいは少しだけ右にずれた構図など、風景を前にあたかもカメラのファインダーで切り取るように画面を構成した。

 

先生はそこで、積み藁の数十枚をモネが見ていた景色を推測して配置したら、彼が見ていた風景、空間が浮かび上がるんじゃないか、というようなことを言っていた気がする *1。モネは晩年、パノラマという形式に魅せられており、フレームの長辺をどこまでも広げたいという欲求の下地として、連作という複数の絵画によるツギハギの全景のヴィジョンは説得力があった。

 

モネはカメラを構えるように、積み藁の畑や睡蓮の池をフレーミングする。それをいくつも描いたり、ほとんど同構図だったりする複製感が写真的だというのは、私が勝手に思ったことだったか先生が話したことか記憶が定かでないが、この日を境に私はモネに夢中になった。「ママたちが好きなルック」が、突如「写真性を帯びた絵画」に変わった。先生の授業ではこういう体験がたびたびあった。

 


あらためてモネを観ると、彼の絵は時間が重ねられ、止揚され、それらが凝固しているものだと気づいた。変化し続ける時間、景色を描き続けるから、画面がどんどん重くなる。見えたままを描きたいのに刻一刻と景色が変わっていくから、それらを追うと結果として写実から離れる。風景の一瞬だけを切り固める写真とは遠く、瞬間と瞬間の融合を絵筆で描写するから、瞬間を重ねるだけの多重露光とも違う。ただモネも写真も、「時間」と「見ること」を扱っていると思った。

 

鈴木理策の《水鏡 17》(2017)は、モネの絵画で起こっていることが写真に適用されている。モネの方法論を忠実に写真へ置き換えてはいないが(それは研究者がやったらよい)、瞬間では捉えられない時間のあり方が、固定されない水の様子や複数の焦点距離によって表され、かつ絵画にはない写真固有のテクスチャーが見られる。

 

《水鏡 17, WM-753》

 

ピントがぼけているところ、ぼけていないところ、光を受ける小枝の細部は捉えられているのに、水の流れの速度は捉えられていないこと(捉えられない時間があること)というように、一枚の写真の中に、複数の視点や状態が統合されている。これはモネが試み続けたことだ。

 

写真固有の、というのは、モネの絵筆に相当する視野の結合がカメラによって為されていること以外に、フィルムキズのようなノイズや、光を受けて固有色を失くした睡蓮の葉、そのアウトラインのシャープさに、写真というメディアの性質を感じる。

 

《水鏡 17, WM-741》部分、《水鏡 17, WM-77》部分

 

 

私のモネの解釈は、変容する時間、それによって変わりゆく光景を一枚の絵に定着しようとした人で、写真でいえば長時間露光、多重露光に近しいが、キャンバスに重ねられる情報がモネという人物によって恣意的に選ばれ、止揚されるという点が、やはり仕組みとしての写真の手法とは異なる。

 

たとえばモネの取り組みを伝えるエピソードに、彼が愛人の亡骸をクロッキーしていると、いつしか彼女への悼みよりも、刻一刻と変化していく光、その肌の色のうつろいを描写しきれないことに心が占領された話がある。
目の前の状態を捉えたいのに、自分の手がその速度に追いつかないこと。一瞬の光景が持つ膨大な情報量を追うことを諦めたくないという感覚は、ロニ・ホーンの写真作品《静かな水》(1999)にも通じる。

 

一瞬の時間や景色には捉えきれない因子があって、その事実を適当にいなさず、できるだけ拾って画面に集積させたいという欲求。モネが捉えた光景の欠片は彼が捉えただけ筆致によって練り上げられ、重層的な時間となって観る者を圧倒する。セザンヌがモネを評した「モネは一つの目にすぎない。しかし、何という目だろう」は、印象という言葉からはほど遠いもの、つまり心の内でなく「眼前の外界をできるだけ見ていくことにした目」に対するものだろう。

 

《静かな水》 写真表面に置かれた数字と、その数字に対応する註の言葉

 

 

私はずっとモネと写真、そのインターフェイスの様相を検討する上で、ジャック・ペルコントについて書きたいと思っていた。レオス・カラックスが撮影を担当した彼の《L, 2014》は、その見た目から印象派の絵画が連想されるが、次から次へと変容するブロックノイズの一部に目を奪われていると、ほかの部分がせりあがってくる感覚がモネに近接している。

 

 

調べものを後回しにしているうちに、鈴木理策の《水鏡》や《ジヴェルニー》を見ることとなった。展示会場の大きい写真がよいのは、妙な細部があちこちに潜んでいるのが見やすいし、ノイズやボケといったミステイクともなる要素をわざわざ大きくプリントするという意図が了解しやすい。

 

松浦寿夫岡崎乾二郎による対談『絵画の準備を!』において、彼らは視覚言語として翻訳できないモネの特殊性に触れながら、松浦はモネを「絵画が成り立たない事態」の代名詞とし *2、岡崎は「自分をまったく感覚的装置に化すという立場に徹底したのはモネくらい」*3、「モネという現象にどう対処するか。だいたいセザンヌもモネ的な事態にどう対処するかでやっている。」と述べている *4。

 

きちんと撮れているのかいないのかが曖昧で、カメラの性能を伝えるためのマニュアル写真には採用されないだろう《水鏡》は、まさしく写真を成り立たなくさせ兼ねない危うい画面だ。絵画は、写真は、データモッシュは、モネにどう対応するか。《水鏡》は視覚表現において未だ宙吊り状態にある、モネの目に対する写真表現からの応答である。

 

 

 

*1 あやふやな記憶で、言質は何かと定かでない。松浦寿夫氏の著作に何か書いてあるかも。

*2 松浦寿夫岡崎乾二郎『絵画の準備を!』朝日出版社、2005年、224-225ページ

*3 同書、223ページ

*4 同書、224ページ