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0号室とウジェーヌ・アジェ――コンテンツ・アート

0号室さんのインスタグラムがかっこいい。

https://www.instagram.com/0___room/

 

匿名の極地、といった感じだ。

  • 〈景色〉は無人
  • 〈人物〉は手足や後ろ姿のアップ。
  • 〈エフェクト〉は既存のスマホアプリのもの。

戦慄するほどディストピア

とにかく見た瞬間、「かっこよすぎ、アッジェじゃん」となった。

 

この人はツイッターやインスタグラムで、誰にでも当てはまるような匿名的な詩を書き、それを書籍化してお金を稼いでいる。だから誰もがこの人の詩や写真に、自分の心情を託せるよう、作品から固有性を排除している。匿名的な作品を、明確な意図を持って作ろうとし、作れている。

「0号室」という誰も所属不可能、現実に存在しないイリュージョンルームの名を掲げ、ツイッターやインスタグラムなどSNSの拡散機能を使い、ますます匿名度を高めているところも凄まじい。自己紹介欄には「なまえ、わすれました」と書かれている。匿名のプロフェッショナルである。

 

ウジェーヌ・アジェ*1は写真が小型化する前の1910年頃、「あえて匿名的な写真を撮り」「それを売ることで生計を立てて」いた。今みたいに一瞬で写真を撮るなんて不可能で、長時間カメラを置きっぱなしにして、じわじわ紙に像を焼きつけた。なるべく人がいない朝に撮ろうとしたし、このスペックで街にカメラを向けると、生活している人は像が定着する前に動き去っていくのでそう写らない。じっとしている建物だけ写る。そして人為的な生活用具、建造物といった人の痕跡はあるのに人がいないディストピア写真ができあがり、彼の死後、写真を見つけたシュルレアリスム界隈や中平卓馬が「なにこれ不穏、、」と注目した。

「匿名的な」というのは、アッジェは画家のためにストックフォトを撮っていたのである。つまり実相寺アングルみたいな特徴的なショットでなく、たくさんの画家が模写見本としてトレースできるよう汎用性の高い風景写真を撮っていた。0号室さんのインスタグラムは5万6千人もフォロワーがいるのだが、この人たちはアッジェの写真をアートとしてでなく、トレース元として購入していた画家たちにあたる。いま中高生たちの間で、0号室さんの詩を自分たちの写真の上に載せてSNSにアップするのが流行っているので、用いられ方まで一致し始めている。

彼らの写真を同じく匿名足らしめる主語のなさが、アッジェにおいては「誰もが見た(私も見ることができる)」印象を与えるのに対し、0号室さんのは「誰もが撮れる(私も撮れる)*2」感じを持つという違いはある。これは撮り手の性質の差というより、いくつものガジェットやアプリが、私たちをサポートしてくれる現代と100年前という時代の差において起こる印象の違いでもある。

 

こうやって類似点をあげつらう大喜利は、どんな対象同士でも可能だ。匿名性だけでいいなら、楽天に並ぶフリー画像とアッジェをこじつけたっていい。でも0号室さんのインスタグラムは、現代美術や写真に携わる人たちが刮目すべきものだ。だってモノがいい。徹底的に「画像」だ。「画像」の対局に、石川竜一や大橋仁の写真があるとして、0号室さんの場合、被写体の指の皮がささくれだっていても、そこに生々しさは感じられない。スマホで撮られ、アプリのエフェクトでより「画像」化され、普遍や匿名として霧散していく。

そんな「画像」がSNS特有のスクエアカットでスクロール式に並べられ、組写真としてのレイアウト効果を得るために、まとまりのある作品として見えてくる。底冷えするような「誰か」の視点の提示となり、結果的に現代日本の病巣のようなものを写し、表している。これはもうコンテンツでも画像でもなく、「コンテンツ・アート」だ。

 

私は、ぼく脳さん*3自動販売機の写真を毎日撮ってネットにあげている人*4たちの作品を「コンテンツ・アート」と呼んでいる(インターネットを徘徊していると、ときどき「コンテンツ・生アート」にも出会える)。「コンテンツ・アート」は今までの美術の枠組みでは生まれ得なかったものを提示する。美術館やギャラリーでの発表を想定していないために現れるもの、SNSやメールといったメディアと関係することで予期しない現代性を表すもの、それに付随する印象、感覚。

インスタグラムを扱う作家にアマリア・ウルマン*5がいるが、彼女の作品は画像を使ったコンセプチュアル・アートで、もっといえば見栄え良くパッケージ化されたデザインだ(そのことに何ら問題はない、ただ評価のベクトルが違う)。そんでもって我が国においていえば、コンセプチュアル・アートはインターネット芸人によってもう死んだ。かつて前衛芸術だったハイレッド・センターのアート・パフォーマンスはコンテンツサイトのライターたちの仕事となった。

SNSやブログで、アーティストでない人々が豊かなアイデアを呈してくれるようになった結果、コンセプチュアル・アーティストは絶滅した。そして、アーティストとインターネット芸人の違いは、ロジックやコンセプトの質でなく、アウトプットされた最終形態の是非で決まる。

 

0号室さんのインスタグラムは、5万6千人(この文章を書いている間に6万人になった)にとって「コンテンツ」だ。そのインスタグラムや、0号室さんの詩を自分の写真に当ててSNSにアップする活動を「コンテンツ・アート」と呼ぶのはマイノリティすぎる。でもシュルレアリストらがアッジェを取り立てたありがた迷惑同様、どうしても気になる。

SNSにアップされる画像の価値は、かわいい女の子だったり、かわいい犬だったり、写っている被写体そのものにある。価値があるのはキム・カーダシアン本体で、画像はそれを間接的に伝える。対して、0号室さんの画像は、写っているものに固有の価値はほとんどない。海外フォロワーの多さが示すよう、土地さえ凌駕する匿名性、ベッドのシーツ、女性の手、木々といった広域の生活圏において共有可能な匿名因子を写している。アッジェの撮った人物が、「帽子売り」や「水売り」といった記号的職業の提示だったように「女」とか「恋人」といった観念を示す。

 

この文章を書いている7日の間に0号室さんは結婚式をあげ、長らく同じだったプロフィール欄も変更してしまったが、まだ匿名度は健在だ。

画像、写真、アート、コンテンツ、、メディアの領域を定義しようとする不毛さを「コンテンツ・アート」は揺さぶる。しかし、0号室さんがインスタグラムの写真集を出版したら、それは「写真」なのだろうか。画像と写真の違いについて、インターネットには書いてあるだろうか。書いてあったとして、そのコンテンツを書いているのは匿名の誰かだ。

 

〈参考〉

*1 ウジェーヌ・アジェの写真

*2 恋人がいる5万6千人の人たちなら

*3 ぼく脳さんのtwitter

*4 自動販売機の写真を毎日撮ってネットにあげている人

*5 アマリア・ウルマンのインスタグラムパフォーマンス(アマリア・ウルマンによる架空であり、同姓同名の人物「アマリア・ウルマン」のSNSアカウント)