『ドライブ・マイ・カー』と3匹の犬

 

映画『ドライブ・マイ・カー』(2021)には、3度犬が登場する。本作に登場する生身の動物は犬だけで、3回の登場では必ず本作の主要人物・渡利みさきと関係する。はっきり言って、このことがどうしても受け入れがたい。渡利という23歳の若い娘を、犬という「人間以外の生き物」と同列に扱っているから、とは思わない。しかし、本来備える声を抑制することで人間と共生する生き物を彼女のイメージファクターとして用いることに強い抵抗を感じる。

本作にはもう一種、人間ではない生き物が登場する。こちらは生身ではなく主人公が見るyoutube動画に登場する、ヤツメウナギだ。この円口類は主人公である家福悠介の妻・音の分身として現れる。

 

『ドライブ・マイ・カー』における2人の重要な女性は対照的で、渡利は寡黙、音は饒舌で神秘性を備えた女性として描かれる。それぞれを表象する生き物の提示のあと、最終的には忍従を能力として備える存在、犬がスクリーンに映される(犬は大きな声で吠えることができるが、しつけられ、鳴き声を抑制することによって人間と共生する)。

このことに多くの観客が寛容なのは、おそらくは映画終盤の劇中劇のシーンにおいて主人公の家福もまた、彼自身が苦しい生を受け入れる態度を示唆してみせるからだろう。一方で本作のラストシーンに彼の姿はない。あるのは、彼の車に乗り、前に向かって進む娘と犬の姿だ。

前進する女性の姿と言うと聞こえはいいが、この娘はその生い立ちから、自分の感情を抑制し、またその抑制的なふるまいによって、家福の車を運転するという居場所を獲得した娘である。そうした娘の姿を提示して映画を終えるのは、 #MeToo のように、女性が声を挙げる気勢が広がりつつあった2021年において、よくわからない。

もっともこれは日本人の男性監督が女性を描くという、小津安二郎溝口健二さえもつまづく困難さが50年経ても未だ解消されない苛立ちから、たまたま『ドライブ・マイ・カー』に因縁をつけるに過ぎない。『ドライブ・マイ・カー』はその語り方、出来事を視覚に置き換える「形式」において、ほとんど問題がないように見える。だから女性の描き方という「内容」は、映画評から捨て置かれているのかもしれない。それにもしこの映画が女性監督によるものだったとしたら、私は違う印象を持っただろうし、作品外の要素を重ねて映画を観るというアンフェアな行為をしているのはこちらの方だろう。

ただ、率直に言って私はこの映画のラストに問題があると感じた。以下に、そのように感じた補足を述べる。どうして日本の男性監督は、男性の内面を描くのにあたって女性の姿を「借りる」のか。こうしたことの繰り返しで、私にはいつも現代映画の評価軸が霞みがかかって見える。

 

 

映画『ドライブ・マイ・カー』には、3つのシーンに犬が登場する *1。一度目は演出家である主人公・家福と、その専属ドライバー・渡利、また家福のレジデンス先のスタッフ・ユンスと、その妻であり、家福の作品に出演するユナの4名で食事をするシーンだ。

犬は夫婦の飼い犬であり、犬はまずユナが持つリードに繋がれた状態で登場する。 リードを手にするユナは聞くことはできるが、言葉としての声は発しない手話話者だ。

食事が始まると、家福は夫婦と不思議な邂逅を果たす。ユナは自分の言葉を手話で語り、それをユンスが家福に声で語り直す。これは家福と音が行ってきた、妻の言葉を夫が語り直す行為と重なる(家福は脚本家である妻・音が半睡の状態で後述するストーリーを、目覚めた妻に向かって語り直し、彼女はその内容を元に文章を書いていた)。

彼らは子を亡くすという共通項も含めた、いくらかの長い会話のあと、話題を渡利の運転技術に移す。家福にその技術を褒められた渡利は突然椅子から床へと向かう。そこには犬がいる。褒められ、照れた彼女は、犬を撫でるという行為で突発的に生じた感情を解消する。このときカメラは渡利の頭頂から見上げるようにテーブルに座る3人を映す。犬はたしかに椅子に座らず床にいるのが自然だが、映画における高低差の演出は塩田明彦の『映画術』における『近松門左衛門』の例を出すまでもなく、人物たちの立場や関係性を指し示す。濱口監督自ら、本作のインタビューで階段の段差を用いた視点合わせについて触れている*2 。このシーンのカメラワークでは、上層と下層でなく(と信じるほかないが)、渡利と犬の性質の近さが示される。

二度目は家福と渡利が2人で焼却所に訪れるシーンだ。2人が屋外に出て煙草を吸っていると、渡利の足元にフリスビーが飛んでくる。渡利はその持ち主と犬の元へフリスビーを投げ返す。フリスビーは、人間が投げたモノを犬が掴み、人に渡すという、身体的なコミュニケーション行為だ。渡利はここでもまた、言葉ではなく身体を使って犬とのやりとりに参加する。

三度目は本作のラストシーン。韓国のスーパーで買い物をする渡利の姿が示されたあと、買い物袋を下げた彼女が駐車場を歩いていく。たどり着いた車は家福が乗っていたサーブ900で、車内に一匹の犬がいる。渡利はエンジンをかけ、車を走らせる。

 

『ドライブ・マイ・カー』は妻を亡くした男が、その傷に向き合う過程を描いた映画だ。舞台演出家である主人公が映画内で演出を行う『ワーニャ伯父さん』の展開が、主人公の実生活に対応する劇中劇の構造になっている。『ワーニャ伯父さん』のラストは主人公であるワーニャが、彼の妹の娘・ソーニャに励まされて終わる。この構造はそのまま、家福と渡利の関係に重なる。中年男性が若い娘にエネルギーをもらうという、あまりに卑俗な設定が『ワーニャ伯父さん』においては血縁者であること、『ドライブ・マイ・カー』においては幼くして亡くした家福の娘が、生きていたら渡利と同い年だという、家福の発言によって男女の仲でなく娘に励まされる父という構図をかろうじて維持している(しかし家福は、仮定であっても自分は渡利の父ではないとも明言する)。

 

家福の妻・音は『ワーニャ伯父さん』において、セレブリャコフに相当する。ワーニャは大学教授であったセレブリャコフに心酔し、自分の人生を彼に費やしてきたという自負を持っている。しかしセレブリャコフは人生を捧げるに値する人間ではなかったのではないかというワーニャの疑心が、妻がどのような人間かを、自分は理解していなかったのではないかという家福の葛藤と重なる。

家福はワーニャを演じる際、ワーニャ以外の配役のセリフを妻に発させたテープを車内で聴くことを稽古の一つとしていた。家福が発するワーニャのセリフと妻の声が揃えば一つの作品が読み上がるよう、家福にとって音は半身そのもののだった *3。

音はまた家福に、彼女の実体験かフィクションか判別がつかないストーリーを語ってきた。そのストーリーに登場する少女は、自分の前世はヤツメウナギだったと言い、音は八つ目という複眼の神をイメージさせる神秘的な女性として描かれる。

音は夫以外の若い男たちとも関係を持ち、その内の一人であった俳優・高槻は彼女のカリスマ性について語る。家福のドライバーゆえ、同乗して音の声を聴く渡利もその声が好きだと言う。

音による『ワーニャ伯父さん』のセリフ「皆さん、働きましょう」という声のあと、主人公が演出する劇の演者たちの姿が複数示され、劇伴でも複数の楽器のアンサンブルが奏でられるなど、人々を司る女神のような存在として彼女は描かれる。ヤツメウナギが持つ複数の目(に見える、2つの目と喉につながる6つの穴)、テープにおける複数の人物のセリフが表す彼女の豊かな声に対して、犬を伴って表される渡利の無口さは否が応でも強調される。

 

結局のところ、饒舌な妻と真逆のタイプの娘によって、男は癒され、救われる。娘もまた男との出会いによって、閉じ込めていた感情を揺るがす時間と、仕事と居場所を得る。それゆえ一見、男と娘は互いに得るものを得る対等な関係に思えるが、しかしそれは娘が、車という家福の資質に馴染んだからにすぎない。

家福はもともと、この作品のキーとなる愛車・サーブ900を大切にしており、妻に対する唯一許せないこととして彼女の運転技術を挙げる。車は家福自身であり、妻の待つ家たるマンションの立体駐車場に帰宅する様子は、妻の胎内に車ごと侵入するかのようだ。感情の制圧に長け、見事に車を操作する渡利は段階を経て家福に受け入れられ、彼の車の中に入ること、その中で煙草を吸うこと、1人で(さらには犬を連れて)運転することも許されるようになる。

緑内障によって視力を弱めつつある家福にとって、渡利の目は彼の身体の一部ともなる。そして家福という男性主人公を想起させる車の中に包まれた、寡黙な娘と犬という、家福の資質に沿う者たちの姿でこの映画は終わる。

この映画は、家福という男についてのものだと思う。その男を描くために文字通り歯車として登場する娘とは一体なんなのか。車のように、黙っている20代の女が示されて映画が終わるのを、どんな気持ちで観たらいいのだろう。

 

本作では演出家である家福のメソッドとして、演劇において感情を廃した本読みを行うことが劇中の稽古において実践され、登場人物たちの日常会話でも、語りに近い長台詞では朗々とした声のトーンが採用されていた。機械人形のような抑揚の少ない語りは、本作に関するインタビューでも名前が挙がるロベール・ブレッソンが役者たちに要求した*4 、演技を廃した「モデル」となる理念を想起させるが、本作のラストに登場する渡利は、全編を通して印象づけられた無言の性質と合間って、家福という人間を描くための人形に見える。

 

実際、冒頭の印象的な音の姿、逆光によって黒いシルエットと化すことで、観念としての女性が語りかけているような演出や、家福渡利がそれぞれに亡くした人の話を車内でした後にオープンカーの屋根を開け、ともに立てた2本のタバコが線香に見立てられるといった視覚描写を映像言語として用いている以上、犬とワタリが同画面に出てくることは不用意な偶然と言うことができないように思う。音という名の饒舌な女、ユナという声量としての声を持たない女、犬のように声を制御する女と、本作における女性像の表現に声が使われていることは明らかだ。

 

ところで私のこの感想は、『もののけ姫』(1997)が海外の観客から受けたという指摘、「人間によって荒廃した土地が、神秘の力によって緑に覆われるエンドはご都合主義ではないか」というものに近いと思う。日本よりもずっと険しい自然を相手取ってきた人々には、それほどあっさり心地よい自然が獲得できるのかという違和感があったかもしれない。それは作り手が想定している観客を超えた文化圏からの意見だっただろう。そして作品を構成する一要素によって、映画全体の価値が大きくゆらぐことはほとんどない。

『ドライブ・マイ・カー』は、全体を通して良質な映画作品として組み立てられていると思う。ただ娘と犬の姿によって、映画を終える点を除いて。

 

 

*1 犬の最初の登場は家の前なので、犬は正確には4つのシーンに登場する。

*2 特別鼎談 濱口竜介(映画監督)×三宅唱(映画監督)×三浦哲哉(映画批評家)映画の「演出」はいかにして発見されるのか――『ドライブ・マイ・カー』をめぐって | かみのたね

口で言うと馬鹿馬鹿しいけど、高低差があって低いところに家福を置いて、高いところにみさきが立っているっていう状況を作るということです。そこでみさきがしゃがむことによって、二人の目線がだいたい同じ高さになる。そういう関係性がこの時点での二人としては良いのじゃないだろうかと。

*3 家福と音の一体性はベッドシーンでの、一人の正面の顔にもう一人の横顔を重ねて、一人分の顔のフォルムと二つの眼球を為すという、映画史における定番の演出からも伺える。

*4 

カンヌで4冠受賞!「ドライブ・マイ・カー」西島秀俊インタビュー(キネマ旬報WEB) - Yahoo!ニュース

ブレッソンの言うような感情を抑制した、いわゆる芝居じみた演技を排すことは、自分にはできないなと思ったんです。ただ、自分にこうしたことが求められているのであれば、逃げてはいけないと思い、今回10何年ぶりに読み返して、また新たな刺激を受けました〉