モネと写真。鈴木理策の《水鏡》

 

モネと写真のつながりを知ったのは、松浦先生からだった。

 

十何年前、ムサビ学生課下の大教室で、先生は全学科生に向けて美学の講義をしていた。仲間内の情報交換でめっぽう面白いのは103だと聞いてから、単位の申請はしないまま木曜日は一号館に通うようになった。

 

松浦先生の授業はまじに実りがあった。とくにモネとファインダーの話は、写真をやっていた私に刺さり、今もまだ刺さったままだ。

 

それはモネの連作のことだった。モネは睡蓮を250、積み藁を25以上描いていて、ルーアン大聖堂もだけど、同じ対象を描き続けた。そして、ほとんど同じ構図、あるいは少しだけ右にずれた構図など、風景を前にあたかもカメラのファインダーで切り取るように画面を構成した。

 

先生はそこで、積み藁の数十枚をモネが見ていた景色を推測して配置したら、彼が見ていた風景、空間が浮かび上がるんじゃないか、というようなことを言っていた気がする *1。モネは晩年、パノラマという形式に魅せられており、フレームの長辺をどこまでも広げたいという欲求の下地として、連作という複数の絵画によるツギハギの全景のヴィジョンは説得力があった。

 

モネはカメラを構えるように、積み藁の畑や睡蓮の池をフレーミングする。それをいくつも描いたり、ほとんど同構図だったりする複製感が写真的だというのは、私が勝手に思ったことだったか先生が話したことか記憶が定かでないが、この日を境に私はモネに夢中になった。「ママたちが好きなルック」が、突如「写真性を帯びた絵画」に変わった。先生の授業ではこういう体験がたびたびあった。

 


あらためてモネを観ると、彼の絵は時間が重ねられ、止揚され、それらが凝固しているものだと気づいた。変化し続ける時間、景色を描き続けるから、画面がどんどん重くなる。見えたままを描きたいのに刻一刻と景色が変わっていくから、それらを追うと結果として写実から離れる。風景の一瞬だけを切り固める写真とは遠く、瞬間と瞬間の融合を絵筆で描写するから、瞬間を重ねるだけの多重露光とも違う。ただモネも写真も、「時間」と「見ること」を扱っていると思った。

 

鈴木理策の《水鏡 17》(2017)は、モネの絵画で起こっていることが写真に適用されている。モネの方法論を忠実に写真へ置き換えてはいないが(それは研究者がやったらよい)、瞬間では捉えられない時間のあり方が、固定されない水の様子や複数の焦点距離によって表され、かつ絵画にはない写真固有のテクスチャーが見られる。

 

《水鏡 17, WM-753》

 

ピントがぼけているところ、ぼけていないところ、光を受ける小枝の細部は捉えられているのに、水の流れの速度は捉えられていないこと(捉えられない時間があること)というように、一枚の写真の中に、複数の視点や状態が統合されている。これはモネが試み続けたことだ。

 

写真固有の、というのは、モネの絵筆に相当する視野の結合がカメラによって為されていること以外に、フィルムキズのようなノイズや、光を受けて固有色を失くした睡蓮の葉、そのアウトラインのシャープさに、写真というメディアの性質を感じる。

 

《水鏡 17, WM-741》部分、《水鏡 17, WM-77》部分

 

 

私のモネの解釈は、変容する時間、それによって変わりゆく光景を一枚の絵に定着しようとした人で、写真でいえば長時間露光、多重露光に近しいが、キャンバスに重ねられる情報がモネという人物によって恣意的に選ばれ、止揚されるという点が、やはり仕組みとしての写真の手法とは異なる。

 

たとえばモネの取り組みを伝えるエピソードに、彼が愛人の亡骸をクロッキーしていると、いつしか彼女への悼みよりも、刻一刻と変化していく光、その肌の色のうつろいを描写しきれないことに心が占領された話がある。
目の前の状態を捉えたいのに、自分の手がその速度に追いつかないこと。一瞬の光景が持つ膨大な情報量を追うことを諦めたくないという感覚は、ロニ・ホーンの写真作品《静かな水》(1999)にも通じる。

 

一瞬の時間や景色には捉えきれない因子があって、その事実を適当にいなさず、できるだけ拾って画面に集積させたいという欲求。モネが捉えた光景の欠片は彼が捉えただけ筆致によって練り上げられ、重層的な時間となって観る者を圧倒する。セザンヌがモネを評した「モネは一つの目にすぎない。しかし、何という目だろう」は、印象という言葉からはほど遠いもの、「できるだけ見ていくことにした目」に対するものだろう。

 

《静かな水》 写真表面に置かれた数字と、その数字に対応する註の言葉

 

 

おわりになる。私はモネと写真、そのインターフェイスの様相を検討する上で、ジャック・ペルコントについて書きたいと思っていた。レオス・カラックスが撮影を担当した《L, 2014》は、その見た目から印象派の絵画が連想されるが、次から次へと変容するブロックノイズの一部に目を奪われていると、ほかの部分がせりあがってくる感覚がモネに近接している。

 

 

調べものを後回しにしているうちに、鈴木理策の《水鏡》や《ジヴェルニー》を見ることとなった。展示会場の大きい写真がよいのは、妙な細部があちこちに潜んでいるのが見やすいし、ノイズやボケといったミステイクともなる要素をわざわざ大きくプリントするという意図が了解しやすい。

 

松浦寿夫岡崎乾二郎による対談『絵画の準備を!』において、彼らは視覚言語として翻訳できないモネの特殊性に触れながら、松浦はモネを「絵画が成り立たない事態」の代名詞とし *2、岡崎は「自分をまったく感覚的装置に化すという立場に徹底したのはモネくらい」*3、「モネという現象にどう対処するか。だいたいセザンヌもモネ的な事態にどう対処するかでやっている。」と述べている *4。

 

きちんと撮れているのかいないのかが曖昧で、カメラの性能を伝えるためのマニュアル写真には採用されないだろう《水鏡》は、まさしく写真を成り立たなくさせ兼ねない危うい画面だ。絵画は、写真は、データモッシュは、モネにどう対応するか。《水鏡》は視覚表現において未だ宙吊り状態にある、モネの目に対する写真表現からの応答である。

 

 

 

*1 あやふやな記憶で、言質は何かと定かでない。松浦寿夫氏の著作に何か書いてあるかも。

*2 松浦寿夫岡崎乾二郎『絵画の準備を!』朝日出版社、2005年、224-225ページ

*3 同書、223ページ

*4 同書、224ページ

 

最近観たり読んだりしたもの。AC部、谷口暁彦、トム・ガニング。

 

AC部の個展「異和感ナイズ展」(銀座クリエイションギャラリーG8 2022. 2/22(火)~3/30(水))を観に行った。

 

AC部はこのごろ、MV『New Tribe』(2019)などに見られる「アニメーション制作の過程で生じるレイヤー構造を直接的に見せる」ことを積極的にやっていて、それがトム・ガニングのアニメーション論を照射するようで面白かった。

 

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AC部『Powder "New Tribe"』

 

初期映画・メディア史の研究者であるトム・ガニングは、2014年の論考でマノヴィッチを引きながら、アニメーションや映画に共通する源泉は、フレームとフレームが連なって運動を生むこと *1、としている。これはスタン・ブラッケージから映像に入った私みたいなものには、とても腑に落ちる感覚だ。

 

ガニングはこの論考でカメラレス・アニメーションの例を出しながら、写真のように撮影されたものだろうが、手によって描かれたものだろうが、どちらもフィルムのコマという静止画の段階を一度経て、それらが連なることで動画になるという視点を「アニメーション1」と呼び、いわゆるアニメーションとされている時間を伴う動きの描写を「アニメーション2」とし、彼の運動理念について検討している。

だけどここで立ち止まりたいのは、セルシステムやマルチプレイン以降 *2、「アニメーション1」の1フレーム内には複数レイヤーの重なりが垂直方向に潜在するということで、AC部の「3Dレイヤー飛散技法」は、そのレイヤー構造を示しながらアニメイトするものだ。

 

 

本展のメインといえるこのアニメーション作品は、彼らの長年にわたるテーマ「違和感」をガイドに、1フレームを構成するためのレイヤーの存在を示しつつ、対象レイヤー同士の間隔の黄金比を探り、制度化された美の尺度を問うというものだ。
そして上映スペースの前室には、アニメーションで描写された空間と同じレイヤー構造を持つ場面が「静止」した絵画作品となって展開されている。

 

一枚絵における層構造の提示は、時間の重ね合わせへの意識として、デュシャン未来派以降、タイガー立石美大生の卒展絵画などに点在的に見つけられる。AC部も2020年の展示「九越 -Transmorph-」において、MV『Sugarfoot』を絵画展開する際に近しいアプローチを取っているように見えた。しかし本展では「複数フレームを一枚絵に圧着したものか」「1フレームにおける複数の潜在レイヤーを示すものか」という視点において後者が選ばれ、アニメーションの検討から生成された絵画作品であるように感じる。

そして、そのような絵画作品に囲まれた空間に滞在するという鑑賞体験は、彼らのアニメーション作品の拡張実践としても機能している。

 

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マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》(1912)

 

ところで、アニメーションのレイヤー構造を空間的に創出する例に、栃木県の「山あげ祭」がある。「山あげ祭」は分割された背景である、舞台の書き割りレイヤーとなる板を数十人の力によって立て起こし、3日間にわたって移動しながら歌舞伎を上演する祭だ。板が立ったあとは、山に見立てられたレイヤーがほとんど動かない演目もあるが、『将門』には「山の切り返し」「館の回転」「雲のせりあげ」「崩れる館」といった変化があり(動画18:00〜)、ガニングの「アニメーション1」を介さないアニメーション「アニメーション0」として、私は勝手に注目している。そしてこの空間的、および人力による身体的なレイヤー構造は、谷口暁彦の《やわらかなあそび》 (2019/2021)に通じる気がする。

 

 

もともとパフォーマンス作品として上演された《やわらかなあそび》は、この前までやっていた「多層世界の歩き方」(ICC 2022.1月15日(土)—2月27日(日))にやや形を変えて出品されていた。身体と空間の関係性を問うというテーマのもと、現実空間と仮想空間というレイヤーの提示みならず、一部のシーンにおいてかなり直接的にCGレイヤー同士のぶつかりを視覚化する場面がある。

 

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谷口暁彦《やわらかなあそび》

 

まず、ICCでの展示でよいなと思ったところは、四つの大きなモニターで囲った空間に《やわらかなあそび》 を割り当てながら、その空間の半ば内側に《WYSIWYS(What You Search Is What You See)》(2019)というもう一つの作品が置かれていることだ。この作品は鑑賞者がマウスを使って仮想のスマートフォンで撮影ができるというもので、谷口暁彦自身のアバターに同期して、自撮りができる。そのように鑑賞者と谷口アバターとの親和性が高まった中で、《やわらかなあそび》 における谷口暁彦を見たり、ほかのキャラクターたちが通常は交わり得ないレイヤーの閾値を超えてぶつかったりしていく状態を視認できる。これにより、現実を含めた異なる時空間のレイヤーが重なっている印象がもたらされる(プログラミングにおいても、キメラモデルを作ってるのでなく、実際、強引にレイヤーを重ねているように思うがどうなんだろう)。

 

ガニングはソーマトロープについて述べる際、表と裏の面が重なることで、表だけ裏だけの絵柄では見ることができなかった像が出現する状態をヴァーチャルと呼び、そのイメージが糸を捻って引くという身体行為によって生じることに注目している *3。ガニングにならえば、1フレーム内で複数レイヤーが重なったり交錯したりしていても、それが1つのモニターで表示されている限りは、見た目がヴァーチャル風でもヴァーチャルではないのだが、《WYSIWYS》によって谷口との身体的同期が進んだ状態であれば、《やわらかなあそび》をヴァーチャルに体験することができるだろう。

 

AC部谷口暁彦も、ガニングの「アニメーション1」をさらに解体し、1フレームが持つ層 *4 をそれぞれに展開しているようで面白かった。彼らの作品とガニングを結びつける必要はないのだけど、丁度『映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』を読んでおり、このように感じた。この本はとても素敵で、訳して出してくれた人たちに大感謝……。

 

*1 「不連続なフレームの急速な継起による動きの技術的な生産」(「第8章 瞬間に生命を吹き込むこと」)、『映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』 p. 276 

*2 セル発明よりも古く、レイヤーを取り入れた最初期の視覚玩具に、1850年代頃に生まれたクロマトロープがある。

*3 *1と同書 P.214。

*4 レフ・マノヴィッチは、デジタル映画に用いられるAdobeなどの編集ソフトが、あらかじめレイヤーを想定した仕組みを持つことに触れ、フェルナン・レジェの『バレエ・メカニック』(1924)などに見られたレイヤーという技術的な前衛性が、現代では標準化されるようになったと指摘する(『ニューメディアの言語』P. 419)。

『ドライブ・マイ・カー』と3匹の犬

 

映画『ドライブ・マイ・カー』(2021)には、3度犬が登場する。本作に登場する生身の動物は犬だけで、3回の登場では必ず本作の主要人物・渡利みさきと関係する。はっきり言って、このことがどうしても受け入れがたい。渡利という23歳の若い娘を、犬という「人間以外の生き物」と同列に扱っているから、とは思わない。しかし、本来備える声を抑制することで人間と共生する生き物を彼女のイメージファクターとして用いることに強い抵抗を感じる。

本作にはもう一種、人間ではない生き物が登場する。こちらは生身ではなく主人公が見るyoutube動画に登場する、ヤツメウナギだ。この円口類は主人公である家福悠介の妻・音の分身として現れる。

 

『ドライブ・マイ・カー』における2人の重要な女性は対照的で、渡利は寡黙、音は饒舌で神秘性を備えた女性として描かれる。それぞれを表象する生き物の提示のあと、最終的には忍従を能力として備える存在、犬がスクリーンに映される(犬は大きな声で吠えることができるが、しつけられ、鳴き声を抑制することによって人間と共生する)。

このことに多くの観客が寛容なのは、おそらくは映画終盤の劇中劇のシーンにおいて主人公の家福もまた、彼自身が苦しい生を受け入れる態度を示唆してみせるからだろう。一方で本作のラストシーンに彼の姿はない。あるのは、彼の車に乗り、前に向かって進む娘と犬の姿だ。

前進する女性の姿と言うと聞こえはいいが、この娘はその生い立ちから、自分の感情を抑制し、またその抑制的なふるまいによって、家福の車を運転するという居場所を獲得した娘である。そうした娘の姿を提示して映画を終えるのは、 #MeToo のように、女性が声を挙げる気勢が広がりつつあった2021年において、よくわからない。

もっともこれは日本人の男性監督が女性を描くという、小津安二郎溝口健二さえもつまづく困難さが50年経ても未だ解消されない苛立ちから、たまたま『ドライブ・マイ・カー』に因縁をつけるに過ぎない。『ドライブ・マイ・カー』はその語り方、出来事を視覚に置き換える「形式」において、ほとんど問題がないように見える。だから女性の描き方という「内容」は、映画評から捨て置かれているのかもしれない。それにもしこの映画が女性監督によるものだったとしたら、私は違う印象を持っただろうし、作品外の要素を重ねて映画を観るというアンフェアな行為をしているのはこちらの方だろう。

ただ、率直に言って私はこの映画のラストに問題があると感じた。以下に、そのように感じた補足を述べる。どうして日本の男性監督は、男性の内面を描くのにあたって女性の姿を「借りる」のか。こうしたことの繰り返しで、私にはいつも現代映画の評価軸が霞みがかかって見える。

 

 

映画『ドライブ・マイ・カー』には、3つのシーンに犬が登場する *1。一度目は演出家である主人公・家福と、その専属ドライバー・渡利、また家福のレジデンス先のスタッフ・ユンスと、その妻であり、家福の作品に出演するユナの4名で食事をするシーンだ。

犬は夫婦の飼い犬であり、犬はまずユナが持つリードに繋がれた状態で登場する。 リードを手にするユナは聞くことはできるが、言葉としての声は発しない手話話者だ。

食事が始まると、家福は夫婦と不思議な邂逅を果たす。ユナは自分の言葉を手話で語り、それをユンスが家福に声で語り直す。これは家福と音が行ってきた、妻の言葉を夫が語り直す行為と重なる(家福は脚本家である妻・音が半睡の状態で後述するストーリーを、目覚めた妻に向かって語り直し、彼女はその内容を元に文章を書いていた)。

彼らは子を亡くすという共通項も含めた、いくらかの長い会話のあと、話題を渡利の運転技術に移す。家福にその技術を褒められた渡利は突然椅子から床へと向かう。そこには犬がいる。褒められ、照れた彼女は、犬を撫でるという行為で突発的に生じた感情を解消する。このときカメラは渡利の頭頂から見上げるようにテーブルに座る3人を映す。犬はたしかに椅子に座らず床にいるのが自然だが、映画における高低差の演出は塩田明彦の『映画術』における『近松門左衛門』の例を出すまでもなく、人物たちの立場や関係性を指し示す。濱口監督自ら、本作のインタビューで階段の段差を用いた視点合わせについて触れている*2 。このシーンのカメラワークでは、上層と下層でなく(と信じるほかないが)、渡利と犬の性質の近さが示される。

二度目は家福と渡利が2人で焼却所に訪れるシーンだ。2人が屋外に出て煙草を吸っていると、渡利の足元にフリスビーが飛んでくる。渡利はその持ち主と犬の元へフリスビーを投げ返す。フリスビーは、人間が投げたモノを犬が掴み、人に渡すという、身体的なコミュニケーション行為だ。渡利はここでもまた、言葉ではなく身体を使って犬とのやりとりに参加する。

三度目は本作のラストシーン。韓国のスーパーで買い物をする渡利の姿が示されたあと、買い物袋を下げた彼女が駐車場を歩いていく。たどり着いた車は家福が乗っていたサーブ900で、車内に一匹の犬がいる。渡利はエンジンをかけ、車を走らせる。

 

『ドライブ・マイ・カー』は妻を亡くした男が、その傷に向き合う過程を描いた映画だ。舞台演出家である主人公が映画内で演出を行う『ワーニャ伯父さん』の展開が、主人公の実生活に対応する劇中劇の構造になっている。『ワーニャ伯父さん』のラストは主人公であるワーニャが、彼の妹の娘・ソーニャに励まされて終わる。この構造はそのまま、家福と渡利の関係に重なる。中年男性が若い娘にエネルギーをもらうという、あまりに卑俗な設定が『ワーニャ伯父さん』においては血縁者であること、『ドライブ・マイ・カー』においては幼くして亡くした家福の娘が、生きていたら渡利と同い年だという、家福の発言によって男女の仲でなく娘に励まされる父という構図をかろうじて維持している(しかし家福は、仮定であっても自分は渡利の父ではないとも明言する)。

 

家福の妻・音は『ワーニャ伯父さん』において、セレブリャコフに相当する。ワーニャは大学教授であったセレブリャコフに心酔し、自分の人生を彼に費やしてきたという自負を持っている。しかしセレブリャコフは人生を捧げるに値する人間ではなかったのではないかというワーニャの疑心が、妻がどのような人間かを、自分は理解していなかったのではないかという家福の葛藤と重なる。

家福はワーニャを演じる際、ワーニャ以外の配役のセリフを妻に発させたテープを車内で聴くことを稽古の一つとしていた。家福が発するワーニャのセリフと妻の声が揃えば一つの作品が読み上がるよう、家福にとって音は半身そのもののだった *3。

音はまた家福に、彼女の実体験かフィクションか判別がつかないストーリーを語ってきた。そのストーリーに登場する少女は、自分の前世はヤツメウナギだったと言い、音は八つ目という複眼の神をイメージさせる神秘的な女性として描かれる。

音は夫以外の若い男たちとも関係を持ち、その内の一人であった俳優・高槻は彼女のカリスマ性について語る。家福のドライバーゆえ、同乗して音の声を聴く渡利もその声が好きだと言う。

音による『ワーニャ伯父さん』のセリフ「皆さん、働きましょう」という声のあと、主人公が演出する劇の演者たちの姿が複数示され、劇伴でも複数の楽器のアンサンブルが奏でられるなど、人々を司る女神のような存在として彼女は描かれる。ヤツメウナギが持つ複数の目(に見える、2つの目と喉につながる6つの穴)、テープにおける複数の人物のセリフが表す彼女の豊かな声に対して、犬を伴って表される渡利の無口さは否が応でも強調される。

 

結局のところ、饒舌な妻と真逆のタイプの娘によって、男は癒され、救われる。娘もまた男との出会いによって、閉じ込めていた感情を揺るがす時間と、仕事と居場所を得る。それゆえ一見、男と娘は互いに得るものを得る対等な関係に思えるが、しかしそれは娘が、車という家福の資質に馴染んだからにすぎない。

家福はもともと、この作品のキーとなる愛車・サーブ900を大切にしており、妻に対する唯一許せないこととして彼女の運転技術を挙げる。車は家福自身であり、妻の待つ家たるマンションの立体駐車場に帰宅する様子は、妻の胎内に車ごと侵入するかのようだ。感情の制圧に長け、見事に車を操作する渡利は段階を経て家福に受け入れられ、彼の車の中に入ること、その中で煙草を吸うこと、1人で(さらには犬を連れて)運転することも許されるようになる。

緑内障によって視力を弱めつつある家福にとって、渡利の目は彼の身体の一部ともなる。そして家福という男性主人公を想起させる車の中に包まれた、寡黙な娘と犬という、家福の資質に沿う者たちの姿でこの映画は終わる。

この映画は、家福という男についてのものだと思う。その男を描くために文字通り歯車として登場する娘とは一体なんなのか。車のように、黙っている20代の女が示されて映画が終わるのを、どんな気持ちで観たらいいのだろう。

 

本作では演出家である家福のメソッドとして、演劇において感情を廃した本読みを行うことが劇中の稽古において実践され、登場人物たちの日常会話でも、語りに近い長台詞では朗々とした声のトーンが採用されていた。機械人形のような抑揚の少ない語りは、本作に関するインタビューでも名前が挙がるロベール・ブレッソンが役者たちに要求した*4 、演技を廃した「モデル」となる理念を想起させるが、本作のラストに登場する渡利は、全編を通して印象づけられた無言の性質と合間って、家福という人間を描くための人形に見える。

 

実際、冒頭の印象的な音の姿、逆光によって黒いシルエットと化すことで、観念としての女性が語りかけているような演出や、家福渡利がそれぞれに亡くした人の話を車内でした後にオープンカーの屋根を開け、ともに立てた2本のタバコが線香に見立てられるといった視覚描写を映像言語として用いている以上、犬とワタリが同画面に出てくることは不用意な偶然と言うことができないように思う。音という名の饒舌な女、ユナという声量としての声を持たない女、犬のように声を制御する女と、本作における女性像の表現に声が使われていることは明らかだ。

 

ところで私のこの感想は、『もののけ姫』(1997)が海外の観客から受けたという指摘、「人間によって荒廃した土地が、神秘の力によって緑に覆われるエンドはご都合主義ではないか」というものに近いと思う。日本よりもずっと険しい自然を相手取ってきた人々には、それほどあっさり心地よい自然が獲得できるのかという違和感があったかもしれない。それは作り手が想定している観客を超えた文化圏からの意見だっただろう。そして作品を構成する一要素によって、映画全体の価値が大きくゆらぐことはほとんどない。

『ドライブ・マイ・カー』は、全体を通して良質な映画作品として組み立てられていると思う。ただ娘と犬の姿によって、映画を終える点を除いて。

 

 

*1 犬の最初の登場は家の前なので、犬は正確には4つのシーンに登場する。

*2 特別鼎談 濱口竜介(映画監督)×三宅唱(映画監督)×三浦哲哉(映画批評家)映画の「演出」はいかにして発見されるのか――『ドライブ・マイ・カー』をめぐって | かみのたね

口で言うと馬鹿馬鹿しいけど、高低差があって低いところに家福を置いて、高いところにみさきが立っているっていう状況を作るということです。そこでみさきがしゃがむことによって、二人の目線がだいたい同じ高さになる。そういう関係性がこの時点での二人としては良いのじゃないだろうかと。

*3 家福と音の一体性はベッドシーンでの、一人の正面の顔にもう一人の横顔を重ねて、一人分の顔のフォルムと二つの眼球を為すという、映画史における定番の演出からも伺える。

*4 

カンヌで4冠受賞!「ドライブ・マイ・カー」西島秀俊インタビュー(キネマ旬報WEB) - Yahoo!ニュース

ブレッソンの言うような感情を抑制した、いわゆる芝居じみた演技を排すことは、自分にはできないなと思ったんです。ただ、自分にこうしたことが求められているのであれば、逃げてはいけないと思い、今回10何年ぶりに読み返して、また新たな刺激を受けました〉

決め画の数フレーム前ーー『最後の遊覧船』B面

A面はこちら 

 

こんっっなに夢中になったマンガは……発売日当日、日付が変わった瞬間にマンガを買うなんて初めてだ。『最後の遊覧船』。洋子はカモメで、祐子はフネで、船長は、というくどい話はこっちに詰めた。ここでは、マンガにおける時間の描き方、めちゃくちゃに痺れた「決め画の数フレーム前」のコマについて書く。

 

🌪(竹宮恵子風と木の詩』の)ネタバレあります

 

まず、マンガのコマは静止画だ。最近はモーションコミックとして動くGIFマンガもあるが、基本的にマンガのコマは止まっている。その静止したコマの中でいかに動きを表現するかという苦心は、多くの漫画家の関心ごとだった。

走っている風速の勢いを表す、いわゆる足元の渦巻きという表現は、止め絵として様になる形態として発展していった記号である(図1) *1。 

 

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図1 ドラえもん 1巻 46ページ

 

なぜこうした記号を生み出す必要があったかというと、同じ絵だからと言ってイラストやポスターといった静止画の絵をそのままマンガに当てはめると、一つ一つの絵のクオリティは高いものの、どこか読みづらさが出てくる。

たとえば、スタジオジブリシネマ・コミックのように、人気のアニメーション映画はのちにその作画を転用してマンガとして販売されることがあるが、それらの絵はマンガのコマの流れを前提に作られたものではないため、絵コンテを読んでいるようなぎこちなさがある。

イラストにはイラストの、アニメーションにはアニメーションの最適解の絵がある。そしてマンガのコマ絵は、それ一つで成立するものよりも、前後のコマ絵との関係性があって一番に威力を発する絵が描かれる。コマの連なりとともに時間的展開を描くストーリーマンガにおいて、動き=時間の描写は重要である。たった一コマの静止した絵においても、時間を含む絵は強い。

 

すぎむらしんいちもまた、この時間を感じさせる絵が抜群にうまい。次のコマからは、船長が主人公・洋子のライフガードを掴んだ力みにより、少し洋子の体が船長側に引き寄せられ、その反動として浮く髪の様子といった、一連の動作とその時間の流れが感じられる。

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図2 『最後の遊覧船』1巻 134ページ

 

その上で、今回注目したいのは、このコマである。 これは「動いているように見える」絵でなく、「動いている」瞬間をそのまま絵にしている。

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図3 『最後の遊覧船』1巻 92ページ

 

デジタルカメラで1秒間を30フレームで撮影すると、そこには30枚の選択可能な画が生まれる。その30枚の中にはスチルとして使用できそうな「決まった」画と、そうでない画がある。すぎむらがここで描いているのは、その、そうでない画の方だ。

図2が瞬間を捉えた絵といえど、それがセリフの発話時間の数秒の印象として読み手に伝わってくるのに対し、ここでは1秒未満の数フレーム、それも決め画の前後の通常なら切り捨てられる瞬間を描いている。

そうすることで、機械合成もされていないフレーム単位での一瞬間を描写している印象が生じるとともに、作品全体に散りばめられた映像的演出をふまえると、デジタルが身近になった読み手の体感に働きかける同時代的な描画に挑戦していると受け取れる。

 

ところで、この「動いている」状態を留めた瞬間を描いた先例に『風と木の詩』(竹宮恵子)がある。終盤ゆえ詳述は避けるが、絶対的な容貌を特徴とする(いわば30フレーム全てに隙がない)主人公が、あっという瞬間に、はかなくなる表現に用いられていた。それは、それまでの主人公のゆるぎない姿との対比として、小さなコマにも関わらずおそろしく際立っていた。

 同じように瞬間を扱った表現でも、作品によってその役割は変わってくる。

『最後の遊覧船』もまた、主人公たちが美男美女という容姿の設定を持つが *2 、一方で、フレーム単位で停止したときの表情の整わなさや、間の抜けた様子(図4)を選出してたびたび描くことで、キャラクターたちの人間らしさを描写している。

 

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図4 『最後の遊覧船』2巻 37ページと、リュミエール兄弟の兄 *3

 

どうにもキマらない人間の姿を描くのがすぎむら作品の魅力だが、すぎむらによる瞬間の描写には、作品のテーマを、セリフではなく絵で語るという、視覚表現としての矜持がある。

決定的瞬間たる決め画からこぼれる人間の側面を、視覚表現によって語る豊かな描写が『最後の遊覧船』には満ちている。

 

 

*1 風速の勢いを示す渦巻きの初期の例に「ルーニー・テューンズ」などアメリカのアニメーションがあるが、ウィンザー・マッケイしかり、アニメーションの黎明期はマンガ家(風刺画家)がアニメーターとなるケースが多く、マンガとアニメーションは動きの表現を並行的に発展させていったといえるだろう。

 

*2 多様な人物描写に長けた作者があえて美男美女のキャラクターに挑んだ作品として、作者と漫画家・浦沢直樹が対談するTV番組『浦沢直樹の漫勉neo』で語られていた。

 

(追記)*3 トム・ガニング『映像が動き出すとき』を読んでいたら、「第1章 視覚の新たな閾」(2001)に、この「決め画の数フレーム前」に通じる魅力について書いてあった。2人の映画の発明者、エディソンはスタジオ内で軽業師にポーズを取らせ、記号的なキャラクターと人工的な空間を撮ったのに対し、リュミエール兄弟は屋外の日常的な風景、それも絵では描かれないような「醜い運動」(間抜けな瞬間)を撮ったことについて書かれている。「醜い運動」は絵画にあまり見られなかった絵面ゆえ、写真というメディアの固有性が感じられたともいう。

飛ぶというアクションにおける、制御できない身体性を捉えるというリュミエールの視点をすぎむらも持っている。しかも、この悪ノリと紙一重の感覚が当時すでに怒られの対象になっていたという。

カモメ、船、みず海ーー『最後の遊覧船』A面

B面はこちら

 

最後の遊覧船』という、めちゃくちゃによい漫画がある。もう、よい、よい…としか言えないし、全部のよい、について言いたい。そういう気持ちは読みものに向かないかもしれないが、とにかく書いていく。

 

🌾(『ホテル・カルフォリニア』も)ネタバレあります

 

●対等がよい

主人公の洋子と、相手役の船長、どちらも対等に「おかしい」のがよい。というのも、青年誌などの女主人公ものに見られる、女主人公だけが特別奇抜で、それに巻き込まれる男性周囲、みたいな構図にあんまりはまれないのだが、これは女も男も対等に、そして同じくらいの程度で「おかしい」(なんなら登場人物全員おかしい)のがよい。

それだけのことが、すごく心地よい。

 

 

●表紙がよい

人物が、めちゃくちゃに澄んでいる。これはデザインの為せる技なのだろうか。最後を思うと2巻完結の2冊の表紙が、この2人であることにも救われる。

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『最後の遊覧船』全2巻

 

 

●ループ構造

主人公の洋子は、ループものを得意とするシナリオライターだ。そんな彼女が最後の脚本仕事を為すため、降りる予定だった遊覧船の目的地で降りることができなくなり、何度も湖を周り続けるというアイデアがきれいだ。

しかもその目的地とは洋子の実家であり、降りた先には母がいる。このギリシャ神話のマザータイプのような話を、日本のバブル以降のやや寂れた国内観光地を舞台に展開していてかっこいい。

 

 

●象徴の型

主要人物が、作品の舞台となった場所に由来する普遍的なモチーフを表象している。洋子は「カモメ」で、祐子は「フネ」で、船長は…「ミズ」。

船長が祐子を選ぶなら、船長は祐子のフネが浮かぶ「湖のミズ」。だから洋子は船長を海に引き出して「海のミズ」にしたい。自分の状況を元にした自作のシナリオ内で、船長とともに海へ旅立つよう執筆するも、現実には叶わない。

祐子はフネだけでなく、土地の神として山の噴火と連動している節もあるが *1、終盤、とくに船の化身のようになって嫉妬を見せる姿がかわいい(2巻 187ページ)。

 

また、実在する楽曲がいくつも登場する中で、とくに中森明菜の『難破船』は作中における2人の女性どちらもを照射する。「私は愛の難破船」という歌詞における難破船は、祐子なのか洋子なのか、「折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい」鳥は、祐子と洋子、どちらの状態なのか。

どちらもが難破船で、どちらもがカモメであるような描写によって読者を揺さぶりながら、最終的には祐子と洋子、それぞれの像が示される。

たとえば祐子のインスタグラムのアカウント画像はカモメだが、作中におけるカモメとの一致描写は洋子の方が多く、「(東京でボロボロになった)折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい」カモメは、やはり洋子のように思われる *2。

 

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1巻 27ページ

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2巻 95ページ

反転した同構図で示される、2人の女性キャラクター *3

 

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1巻 65ページ

文字通り、カモメと重ねて描かれる洋子

 

 

 ●吉田の鏡面メガネ

洋子にストーカー的執着を見せる、洋子の元同級生・吉田のメガネには、彼が見ている対象の写り込みがたびたび描かれる。洋子本人、洋子と通話中の電話機、洋子が乗っている船など、彼の視野がメガネのフレーム内に写っている対象(洋子に関連するもの)に占有されていることが、この演出から窺える。

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1巻 74ページ

 

 

 ●引用

全然気づけてない引用が多そう。

 

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左:第7話「ドランク・ラブ」表紙 
右:映画『パンチドランク・ラブ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)ビジュアル

 

 

 ●洋子の寝顔

最後に、この作品の痛切なラストについて。2020年、女性を主人公にした漫画作品の最も適切なラストは生きていくこと、それも自律的な生の提示だろう。ゆえに船長に固執するよりも、シナリオライターとして活躍する洋子、という結末はこの上なく正しい。さらに、洋子の脚本家人生は男性の師匠が書いたシナリオ教本からスタートしたが、その師匠本人が感涙するシナリオを書くまでに成長した姿の提示も、とても配慮が行き届いている。

 

洋子は生来の妄想癖を糧に、シナリオライターとして独り立ちするだけの強さを持ち、夢の中で船長に会いにいく。眠りが執筆につながることは師匠のセリフで語られており、夢/妄想がシナリオ/作品となり、彼女が自律的な生を歩む様子を示す、とても前向きなラストだ。

一方で見方を変えれば、洋子は現実には船長と結ばれなかったわけで、夢の中で好きな人に会おうとする姿は相当に痛ましい。

すぎむらの上手なのは、その船長に会いに行こうとする洋子の寝顔を、まるで子どものように描いていることだ。恨みや悲しみにくれる女性でなく、無垢な幼子のように描くことで、読者はそのあどけない娘が、一見幸せに見えても過酷なプロセスを歩むのを(彼女とおなじように現実を変えることはできず)傍観することしかできない無力さを味わう。それにより、一連の出来事がもはや主体的なアクションで変更される余地がない印象が強調される。

 

作品終盤における夢や幻想という位相空間の提示は、すぎむらの代表作『ホテル・カルフォリニア』(1991-1993)を思わせる。そしてこのもう一つの世界の提示は、「そのようにはならなかった現実」の潜像も背負っている。洋子はその重たい位相への行き来(寝起き)をくり返していることが窺える分、突き抜けないしんどさがある。『ホテル・カルフォリニア』と比べると、白か黒かという絶望よりも、グレーをどうにか生きていくという結末にも、2020年における同時代性を感じる。

 

ところで、すぎむらと同世代の映画監督・園子温の『地獄でなぜ悪い』(2013)もまた、妄想をテーマとしていた。あちらは映画領域の現実/虚構という命題における虚構を妄想に置き換えることで、観客の生活感の地続きに映画の文脈を対応させるという試みがあった。

『最後の遊覧船』における妄想は、妄想(意識)と夢 (無意識)という現実外の位相空間が手を結び、執筆行為という現実の一端を紡ぎだす。その妄想空間がとても手放しで浸れるような甘い空間ではないことを示しながら、その過酷な道を眠りながら起きゆく、女性の姿を描いている。そのしんどさを、こんなにうつくしく描くのか、という結末だ。

どちらも現実空間の対比項となる非現実の空間に、現実内虚構である妄想という卑近な営みを置き、構造化された作品形式に人間の「しょうもなさ」の感覚を引き込むことで新鮮さを獲得している。

  

以上は勝手な読み取りで、本当は、夢の中でも遊覧船に乗り続け、延々に湖をループし続ける洋子の生きざまに呆れるという読み心地が意図されたラストなのかもしれない。それにしたって、そのことに気づきもしていないような洋子の穏やかな寝顔……それにこればっかりはすぎむらの絵でなければ、実写では、とても写せない表情に見える。

 

すばらしいな、本当に。

ここに書いたことが、書かなかったこと(コマのリズムや絵といった、漫画としての描写力)に支えられているのだから、この作者にはどれだけの力があるのか。

まだまだ言いたいことはあるけれど*4 、早く、もう一度、『最後の遊覧船』を読みたいので、ここまでにする。

 

--

*1 このことは、洋子、祐子、船長における「カモメ、フネ、ミズ」を「空、陸、海」と広範に捉えることで解釈できる。「フネ」とは水域における「陸」であり、洋子に襲いかかる祐子の目が、陸の生物である鹿と同じ描き方がされてもいた(2巻 29ページ)。また、裕子が女人禁制の神域に足を踏み入れても災いが起きないことから、彼女自身が神性を持つことが示唆されている。

*2 祐子と洋子で、異なるカモメの種類を割り当てられている可能性もある。 

*3 関係ないが、「浦沢直樹の漫勉neo」のすぎむらしんいち回でも、やや言及があった『パラサイト 半地下の家族』でも、同じ1つのソファの上で3つの夫婦の関係が比較展開される演出があった。

 *4 「モノローグの発展法(洋子の妄想の続きが、マンガ内現実として展開する)」、「作者自身の登場(すぎむら自身が作中に出てくる)」、「群像劇の収束感(最後に皆集まってくる、ロバート・アルトマン的な)」、「テレビ周りのシール(小道具描写の細かさ)」)など。

ちょっとピンぼけ。北方領土エリカちゃん

 

「ぬい撮り」という写真のジャンルがある。

これは旅行先などにお気に入りのぬいぐるみを連れていき、そのぬいぐるみをファインダーに入れた記念撮影を行う文化の呼称である。

一般には家族や友人を被写体に撮影するような状況で、なぜぬいぐるみが登場するのかというと、そのぬいぐるみがともに旅行を楽しみたいほど、撮影者にとって親密で大切な存在だからだ。そのため「ぬい撮り」写真の主役は当然、そのぬいぐるみ自身である。ピントはもちろん、ぬいぐるみに合わせられる。

しかし、北方領土のイメージキャラクター・エリカちゃんを撮影した、エリカちゃん公式アカウントによる「ぬい撮り」写真は、かなりの確率でエリカちゃんにピントが合っていない。これは家族の旅行写真で、撮影担当の父親が背景の滝や桟橋にピントを合わせ続け、写真に写った人物たちはすべてぼやけているような異様な状態に近しいのだが、私はこのぼやけたエリカちゃんの写った写真に心を動かされてしまう。その理由について書く。

 

その1. 愛しいエリカちゃんよりも写したい被写体

画像1

図1

 

「ぬい撮り」の撮影は、基本的に一人で行われる。そのため、多くの「ぬい撮り」は、片手でカメラ、もう片方の手でぬいぐるみを持ち、両腕の長さに限定された距離感で撮影される。ぬいぐるみがテーブルなどに置かれる場合でも、ぬいぐるみと、ぬいぐるみ以外の何か(食べ物や景色など)が関わっている状況を捉えることが多く、構図のバランス的にぬいぐるみが画面の端(フレーム内の1/4の位置)に置かれることが多い。

エリカちゃんの写真もまた、こうした「ぬい撮り」定番の画角をよく取っている(図1)。そのため、まず構図とモチーフにより、第一印象として「ぬい撮り」の雰囲気がある。そして、遠景の被写体とともに撮影されるときは大抵エリカちゃんがぼけている(もちろんそうでないときもあるが、ぼけ率が高い)。

これにより写真の主役であるはずのエリカちゃんを差し置いて、それでも撮りたいもの、写したいもの、それこそがピントの合っている被写体である、という印象が生じてくる。撮り手の被写体に対する情動のようなものが却って演出されているように見えて、胸を打たれてしまう(図2)。

 

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図2

 

その2. エリカちゃんという容れ物

写真によっては、ほとんどスマホ写真に写り込んだ指くらいにエリカちゃんが扱われているようなものもある(図3)。これではさすがにエリカちゃんが不憫なようにも思えるが、このアカウントにおいては問題ないのかもしれない。なぜなら、エリカちゃんは他のゆるキャラやPRキャラクターと違い、写真に出てくるぬいぐるみは、概念的な「エリカちゃん」の容れ物にすぎないからである。

 

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図3

 

エリカちゃんのアカウントには、ときどき着ぐるみ式のエリカちゃんが登場する(図4)。本来「ぬい撮り」に写るぬいぐるみは、たとえ何万体と生産されている市販品であっても、撮影者にとっては他の製品には変えられない唯一無二の個体である。その一体が大切だからこそ、色々な場所にともに行く。着ぐるみの場合もディズニーランドのミッキーが同時刻に園内に一体しか出現しないよう、スケジュール管理されているように、大切なものは基本的には世界に一つしか存在しないものである。例えばふなっしーは着ぐるみが本体であり、ふなっしーのぬいぐるみは、動物園のおみやげショップにおけるトラのぬいぐるみのように、本物に対する二次的な物品である。

 

画像3

図4

 

しかし、エリカちゃんは、着ぐるみ式やサイズ違いのぬいぐるみなど、いくつかの「器」を持っている(図5)。多くの着ぐるみ式のキャラクターは、着ぐるみが本体であり、小型のぬいぐるみとは区別されるものだが、、エリカちゃんの場合は縦横無尽に体を入れ替える。これはエリカちゃんが物理的な身体に縛られない、概念的なキャラクターゆえに可能となっているのだろう。

 

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図5

 

まとめ

エリカちゃんは、今敏『パプリカ』の主人公が精神の容れ物となる身体を夢と現実で自在に入れ替えるように、複数の身体を行き来する概念的な存在である。しかし、ならばその抽象的な存在であるエリカちゃんがその姿を写した写真においてぼけていることはむしろ自然なことのように思われる。

つまり、エリカちゃんの「ぬい撮り」写真は、大きくも小さくも、具象にも抽象にもなれるエリカちゃんの存在そのものを表しているのである。 

 

以上が、エリカちゃんのピンぼけ写真に心揺すぶられる理由である。撮影者の心象を反映した写真だとする理由1と、被写体であるエリカちゃんの本質を捉えているという理由2によって、撮る者・撮られる者という両者の立場に起因するエリカちゃんのピンぼけ「ぬい撮り」写真は、どこまでも見る者を惹きつけるのである。

 

画像5

 

 

追記:ところで、エリカちゃんのモデルであるエトピリカの剥製との2ショットを見ていると、さすがに不安な気持ちになってくる。おそらく通常の「ぬい撮り」の概念でいえば、ぬいぐるみは一つの生命体のため、同種族の死体と記念写真を撮っているような印象が生じるためだろう。実際には、外殻はあるが魂はないという共通点を持つ2つの物体が鎮座しているだけだが、剥製の生々しさとエリカちゃんのファンシーな存在感が衝突し、異様な気持ちにさせられてしまう。

画像4 

 

追記2エリカちゃんのアカウントは2014年から着ぐるみ姿の画像をアップしており、20174月にエリカちゃんは初めてぬいぐるみの姿で登場する。最初期から202010月初旬までに、その姿を捉えた写真は約545枚公開されており、そのうち着ぐるみはおよそ111枚。残る約434枚はぬいぐるみで、そのうち半数の222枚ほどでぼけていた。

PARCOとLUMINEの広告デザイン、ポスト・ウーマンリブの空白。

LUMINEのコピーが苦手だ、PARCOのコピーがいい。

ということを、ここ数年ずっと思っていた。と同時に、これは単純にマッチングの問題で、私がLUMINEがターゲットとする女性像に含まれないだけで、時代の潮流はLUMINEにあるんだよな、ともLUMINE広告を見かけるたびに思っていた。

というように感じる人は、当然私以外にもいて、最近のPARCO・西武の広告は、かつて西武が栄光を極めた時代のコピーが好きな人が作っているけれど、やっぱりあれだけの胆力を発揮できる人は中々いなくて、今のような状態になっているのだろうと思っていた(PARCO・西武は、現在は異なる系列にあるけれど、彼らがともに参照しているだろう西武広告の黄金時代、70-80年代時は同系列の企業だった)。

ところが、ちょっと違うのかもしれないな、と気にするきっかけになったのが、西武2019の元旦広告である。

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そごう・西武2019 企業メッセージ広告

これは2017年に樹木希林、2018年に木村拓哉、2019年に安藤サクラを起用、共通コピー「わたしは、私。」とともに作られた連作広告である。昨年までは、「私」のイメージ像が誰であるかモデルの顔写真によって明示されていたが、2019年版ではモデルの顔が隠されているため「私」=具体的な人物でなく、「私」=女性(それも顔に白いクリームが叩きつけられている女性)という抽象的な印象が強い広告となった。

これは先日、私が違和感を持ったPARCO2018の秋冬広告と同じ問題を抱えている気がする。「誰のための広告なのか」「これを見た人はどのように感じるか」という受け手の感性が発信者の中にないとき、このようなことが起こるのではないか。

 
■PARCO2018の秋冬広告

PARCOは2018の秋冬で、それまで4年間ディレクションを務めたM/M Parisを解任、男性4名を抜擢した。彼らは明らかにPARCO黄金時代のレイアウト、コピーを模している。

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PARCO2018 秋冬広告「私は裸になれない。」

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PARCO1975 石岡組・長沢岳夫によるコピー「裸を見るな。裸になれ。」

 

 

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左:PARCO2018 秋冬広告「私は裸になれない。」  右:70年代、PARCOのメインアートディレクターであった石岡瑛子による広告(写真:沢渡朔

 

過去の作品を模して成功ならば、引用は歓迎だけれど、私はPARCO2018秋冬のコピーが端的に言って嫌だった。それには3つ理由がある。

 

●「私は裸になれる」と思う
(「(女性が)裸になれない」ということが時代の空気を表していたとして、コピーを見る人物が移入される「私」という一人称に否定形が使われることに抵抗がある。このことから「私は裸になれない。」というコピーにおける「私」は、私自身ではないため、この広告のターゲットから外れる)

●裸になれない=服が必要=PARCOで服を購入、という企業的メッセージが露骨すぎる

●「裸を見るな。裸になれ。」という過去のコピーをふまえた、「私は裸になれない。」というアンチテーゼを現代のコピーとして使用しながら、レイアウトは当時の型に寄せる行為の意義が不明

 

以上の理由から、当時のPARCO広告を知っていて、それらを好きな人が作っているんだろうな、と思うくらいに留めていた。そうしたところに、2019年元旦のそごう・西武のコピーである。
 
こちらのヴィジュアルについて言えば、多くの人がSNSで指摘しているよう、文章と図のバランスがちぐはぐである。

文章では、女性の境遇におけるネガティブな内容と、それらと向き合おうとするポジティブな姿勢について書かれており、視覚イメージとしては、このプレゼンター(広告の発信者)が最終的にアピールしたい面=ポジティブな図を描写すべきところ、なぜかネガティブな状況を示すヴィジュアルが採用されている。

これは顔面をクリームで覆われている女性の図(そもそもアマリア・ウルマン風に言えば、女性の顔に置かれる白い粘着性のある物質は精液のメタファーである)が、不快かどうか、という問題でなく、単純にデザインのロジックとしておかしい。

また、視覚表現における文字と図の関係においても、左下の文章で綴っている内容を図でも重複して表すというのは、電化製品の取扱説明書などで行う方法で、「表現」としてのクリエイティビティを重視する広告デザインの場で行われるのもどうなのか(その方法では、本来文字と拮抗するべき要素である図が、文字の補助機能に成り下がってしまう)。

以上をふまえると、この広告における図は、文字で書かれているネガティブな印象を単に説明するためのヴィジュアルとなっており、あまり有機的な表現ではないと感じる。

 

PARCO2018秋冬の広告については、ディレクションした男性たちのインタビューがWEBに掲載されている。そこでは彼らのクリエイションに関する事柄が語られているが、肝心の広告の受け手側である女性に対するアプローチがまるで述べられていないことに驚く(せっかくの補完チャンスなのに)。

www.parco.jp

 

一方で、私が苦手だったLUMINEのコピー、こちらの方はずいぶんちゃんと作られている。

相変わらずコピーに同調はないけれど(これは私がLUMINEのターゲット層でないというだけで、彼らの仕事の良し悪しとは関係ない)、たとえば2018年春のポスターでは、通常、女性向けのファッション広告には使用されない太型ゴシックフォントを居丈高な女性像の演出として採用したところに、きちんと「挑戦」と「刷新」がある。

こちらもクリエイティブに関わったメンバーとして女性4名が名を連ねているが、むしろ広告表現として筋を通った仕事をする70年代のエネルギーは、こちらの方に受け継がれているのではないか。古き良き時代のPARCO厨の私だが、このようなLUMINEの仕事にはきちんと拍手を送りたい。

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LUMINE2018春広告

www.lumine.ne.jp

 

そごう・西武2019元旦広告の課題

近年、特に昨年2018年は、「女性」というワードが取りざたされ、なにかと話題になることが多かった。そのとき、女性の立場について思考する人が「フェミ」「フェミニスト」など呼ばれたが、一向「ウーマンリブ」というワードは登場しなかった。

ウーマンリブ」という言葉自体は、60年代後半に起こった女性解放運動を表すもので、その派生として、日本では70-80年代にかけて女性主義的な人々を表す総称として使われた。そのため、当時の日本カルチャーが好きな人たちにとっては身近な言葉でもある。

石岡瑛子らによる70年代のPARCO広告が打ち出す女性イメージは、日本的「ウーマンリブ」の代表格のようなところがあるのだが、そもそもこの言葉が廃れた背景には、「ウーマンリブ」という姿勢がこれまで女性的でないとされた事柄(主義主張をはっきりと述べること、公共の場で裸になることなど)をより強調して行うという不自然さを強いる側面を持つために「なぜ女性であることを訴えるために、わざわざ裸にならないといけないのか。ナチュラルでいたい」という女性たちの当然の感想によって自然消滅したという事情がある。

その後、90年代には田嶋陽子らが代表するような「キャラクターとしての「ウーマンリブ」の消費」があり、女性たちはこれに沈黙によってつき合った(誰かが「ウーマンリブ」然とふるまったり、「ウーマンリブ」を演じたりすることもまた、当人の自由だからだ)。

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そごう・西武2019 企業メッセージ

こうした流れがあった後における、そごう・西武2019の元旦広告である。この広告には、①広告デザインとして(前述)、②日本における女性のあり方を問うものとして、課題がある。

②について言うと、今回の広告に用いられた文章は、80年代にはすでに生じていた「ウーマンリブ」や社会に対する違和感を言語化したものだが、そうした内容を文脈も匂わせずに提示することで、文面にある状況を現代の女性が抱える課題として「普遍化」してしまったことだ。

40年も前に日本の女性たちが抱えていた状況をエクスキューズなしに現在の状況として提示すること(あるいは、40年間まじで気づいていなかったのか?)、それを広告として打ち出すこと、女性とは、そういう(問題とともに生き続ける)ものであることをメッセージとして発信しているような事態である。

さらには、この広告の賛同者から「こういう問題があるよね」という普遍印を押されるような状況が生じている。本来、ファッションや生活用品とともに女性が生き、暮らす時間を活性化させていくことを促進していくはずの企業から、不可思議なメッセージが突如提起され、まさに面食らった、というのが率直な感想である。

 

たとえば1年前のLUMINEのコピーは、「わたしはカモメ」でなく、「こちらはカモメ」である。私という女性的一人称に縛られない視座にすでにある女性のイメージ、今年のそごう・西武広告が文章で書いていた内容を、ヴィジュアルと短文で端的に表現している(これこそがコピーの力だ)。

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LUMINE2018春「こちらはカモメ」

  

■ポスト・ウーマンリブの空白

当時PARCOの広告で、石岡瑛子を筆頭に体現されてきた「ウーマンリブ」的な女性像には、女性は弱いものであるというイメージをくつがえすような鮮やかさ、力強さがあり、ひいては逆説的に男性的とされるような印象を生み出すことで、既存の女性観や性差を超越するという取り組みがあった。

昨年までの2017年、2018年における、そごう・西武の元旦広告が少なくとも失敗でなかったのは、この石岡広告の延長線上として、年老いた女性(樹木希林)と男性(木村拓哉)という、年齢も性別も超えたエネルギッシュな存在を、企業メッセージに重ねて打ち立てることができたためだろう。

LUMINEが現代を生きるフェミニンな女性をターゲットに広告を推し進める中、PARCO、もとい西武は、ストレートに女性を被写体にしたとき、かつての「ウーマンリブ」に変わるだけのパワーワード、イメージ像を打ち出せていない感じがある。

石岡瑛子、小池一子、山口はるみ、成瀬始子、藤原新也田中一光…彼らの甚大な仕事と並ぶためには、なにより時代の核をつかむ必要があるだろうが、それ以前の問題として今回の元旦広告には「誠実さ」が欠けているような気がする。図と文章、また、テーマ(そごう・西武の顧客である女性)と方法(デザイン)においても、不誠実なところ(リサーチや気遣いの不足)があったと思う。

 

コピーという「言葉」に対する、受け手の「言葉」による応酬は、いつまでも堂々めぐりだ。だから図、視覚表現は重要である。ただ扇情的なばかりの図ではなく、図と文字の関係において扇情を発揮する広告デザインを、かつての石岡たちの仕事からは感じることができる。彼らによる広告デザインは、未だにエネルギーに満ちている。

言葉の内省性に対し、写真や映像は、言葉と組み合わさることによって、片方の領域だけでは表現することができなかったイメージを創造することができる。そのようにして生まれる広告デザインが、これからも私たちの生活とともにあるとよいな、と思う。