ナルシシズムの正体

 

ロザリンド・クラウスがオクトーバーの創刊号に書いたヴィト・アコンチの悪口河合政之氏は隙あらばそれに抵抗している(12)。私もヴィデオ・アートの一般的な概念にナルシシズムを置くのは無理筋と思うし、たとえヴィト・アコンチがナルシストだったとしても《センターズ》は関係ない、それでも《センターズ》にナルシシズムを感じるとしたらこういう理由じゃないか、という話を「エクリヲ vol.14 特集:Re: 再考」に石黒浩谷口暁彦を挙げて書きたかったけど、指定字数をはるかに超えたので、そちらはお題の「リフレクション」に絞って書いた。

ところで、そこに優れた映像作家として挙げた竹内公太氏が参加する展示「さばかれえぬ私へ Tokyo Contemporary Art Award 2021-2023 受賞記念展」が東京都現代美術館で2023年3月18日(土)〜6月18日(日)に開催されています。

 

《センターズ》にあるとされるナルシシズムについて考えたこと、エクリヲ掲載版とは少し違う「リフレクション」について書いたことをここに残します。

 

 

リフレクションは、フィードバックとともにヴィデオ・アートを検討するための代名詞のような概念と考えられている。これはカメラの捉えた映像が即時的にモニターに映し出されるという機器の性質によるもので、1976年、ロザリンド・クラウスがヴィト・アコンチの《センターズ》(1971)を挙げて論じたナルシシズムの気配も、このリフレクションに由来するものだった。

今日、私たちに最も身近なリフレクションの装置はスマートフォンのインカメラだろう。と同時に、このセルフィーのための機能は、反論の多いクラウスのナルシシズムに関する言説に異議申し立てを重ねる実証装置でもある。カメラレンズとモニターが同一面に配置されたこのデバイスは、いつでも私たちに《センターズ》の再現を可能にさせる。しかし、鏡としての精度は目に入ったゴミを取るにも頼りない。つまり見るための装置としてよりも、リフレクションを記録することに特化している。

クラウスはアコンチがカメラの中心を指差すためにカメラレンズの表面(あるいはカメラの真下に置かれ、撮影映像をリアルタイムで反映したモニター)を見ていたことから、ヴィデオ・アーティストによる自己へのまなざしとナルシシズムとの関連性を提起したが、彼が見ていた電子機器の皮膜はインカメラ同様に見る装置としての精度が低い。指の位置を正すために鏡面に写った己の像を見るという視認行為も、ナルシスの自己に向けた強い撞着を込めたまなざしの強度に遠く及ばない。

それでも《センターズ》にナルシシズムの気配が漂うとすれば、それはアコンチがアイコニックな姿を晒し、自身をキャラクターとして見る者に印象づけることで、画面外に存在する彼の姿をリフレクションとして映像に潜像させるためではないか。

 

石黒浩とそのロボット、谷口暁彦とそのアバター

 

石黒浩谷口暁彦らの制作に見られるようにクローン化された作家の身体は、水面に映るナルシスと、それを覗くナルシスという虚像と実像による二つの像に対応する。

アコンチは彼らの二重の身体に匹敵するもう一つの身体イメージを、横並びの双児としてではなく、垂直方向、彼が映るフレームの手前に配置する。彼の姿を捉えるカメラレンズの表面、あるいは彼が映るモニターの膜を鏡面に措定されるもう一人のアコンチ。実像としては《センターズ》に映っていない不可視のアコンチこそ、ロザリンド・クラウスが指摘したリフレクションの効果であり、彼女が感じ取ったナルシシズムの正体だ、というのが私の仮説だ。

 

クラウスはリフレクションによって倍化した身体がアコンチと向き合うという位置関係を前提に、指の差し合いをナルシスの見つめ合いに置換した。

さらにその不可視のアコンチは、彼というキャラクターの存在感によってリフレクションの鮮明度が強化されている。

 

アコンチの額は顔の面性を強調し、人間の顔の記号的な要素を抽出する。さらにその面性を目立たせる輪郭線として、顔の周囲が長髪で黒く縁取られる。と同時に長髪はやや乱れ、生々しさが感じられる。記号的な顔面の要素に、意匠としてのリアリティが重なった「アコンチ」の姿は、実際一度見たら忘れがたく、キャラクターとして認識しやすい。この顔面の対称性は、中心に位置する指によりさらに焦点化し、逆行する消失点として画面に向かう。

記号的な要素

焦点化

毛髪による顔面の縁取り

 

当然、約23分間にわたってほとんど動かない姿を見続けるという視聴体験も、アコンチの姿を忘れがたくさせる。同じポーズが維持される静止画の要素が動画に置き換えられることで領域間の差異が強調される。不毛に思えるゆえに意識が向けられる「時間」というヴィデオが有する性質こそ、《センターズ》が示したものである。

自分の姿を強烈に印象づけることで、「私を見ているお前を見ているぞ」とする「私」をキャラクターとして提示し、鑑賞者はそれを5分、10分と見続けることで、アコンチでなくモニターを、ヴィデオを見始める。アコンチもまた単にカメラを、ヴィデオを見ている。そこにはリフレクションとヴィデオしかない。

ナルシシズムという言葉が担う過剰な身体、自己へのまなざしよりも、提示する像の強さと鑑賞者との時間の共有こそが、《センターズ》をヴィデオアート作品たらしめている。

 

 

<参考文献>

Performance, Video, and the Rhetoric of Presence』Anne M. Wagner 2000年

ヴィデオを待ちながら 映像、60年代から今日へ』図録 東京国立近代美術館 2009年

リフレクション 映像が見せる“もうひとつの世界”』図録 水戸芸術館 2010年