カモメ、船、みず海ーー『最後の遊覧船』A面

B面はこちら

 

最後の遊覧船』という、めちゃくちゃによい漫画がある。もう、よい、よい…としか言えないし、全部のよい、について言いたい。そういう気持ちは読みものに向かないかもしれないが、とにかく書いていく。

 

🌾(『ホテル・カルフォリニア』も)ネタバレあります

 

●対等がよい

主人公の洋子と、相手役の船長、どちらも対等に「おかしい」のがよい。というのも、青年誌などの女主人公ものに見られる、女主人公だけが特別奇抜で、それに巻き込まれる男性周囲、みたいな構図にあんまりはまれないのだが、これは女も男も対等に、そして同じくらいの程度で「おかしい」(なんなら登場人物全員おかしい)のがよい。

それだけのことが、すごく心地よい。

 

 

●表紙がよい

人物が、めちゃくちゃに澄んでいる。これはデザインの為せる技なのだろうか。最後を思うと2巻完結の2冊の表紙が、この2人であることにも救われる。

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『最後の遊覧船』全2巻

 

 

●ループ構造

主人公の洋子は、ループものを得意とするシナリオライターだ。そんな彼女が最後の脚本仕事を為すため、降りる予定だった遊覧船の目的地で降りることができなくなり、何度も湖を周り続けるというアイデアがきれいだ。

しかもその目的地とは洋子の実家であり、降りた先には母がいる。このギリシャ神話のマザータイプのような話を、日本のバブル以降のやや寂れた国内観光地を舞台に展開していてかっこいい。

 

 

●象徴の型

主要人物が、作品の舞台となった場所に由来する普遍的なモチーフを表象している。洋子は「カモメ」で、祐子は「フネ」で、船長は…「ミズ」。

船長が祐子を選ぶなら、船長は祐子のフネが浮かぶ「湖のミズ」。だから洋子は船長を海に引き出して「海のミズ」にしたい。自分の状況を元にした自作のシナリオ内で、船長とともに海へ旅立つよう執筆するも、現実には叶わない。

祐子はフネだけでなく、土地の神として山の噴火と連動している節もあるが *1、終盤、とくに船の化身のようになって嫉妬を見せる姿がかわいい(2巻 187ページ)。

 

また、実在する楽曲がいくつも登場する中で、とくに中森明菜の『難破船』は作中における2人の女性どちらもを照射する。「私は愛の難破船」という歌詞における難破船は、祐子なのか洋子なのか、「折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい」鳥は、祐子と洋子、どちらの状態なのか。

どちらもが難破船で、どちらもがカモメであるような描写によって読者を揺さぶりながら、最終的には祐子と洋子、それぞれの像が示される。

たとえば祐子のインスタグラムのアカウント画像はカモメだが、作中におけるカモメとの一致描写は洋子の方が多く、「(東京でボロボロになった)折れた翼 広げたまま あなたの上に 落ちて行きたい」カモメは、やはり洋子のように思われる *2。

 

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1巻 27ページ

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2巻 95ページ

反転した同構図で示される、2人の女性キャラクター *3

 

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1巻 65ページ

文字通り、カモメと重ねて描かれる洋子

 

 

 ●吉田の鏡面メガネ

洋子にストーカー的執着を見せる、洋子の元同級生・吉田のメガネには、彼が見ている対象の写り込みがたびたび描かれる。洋子本人、洋子と通話中の電話機、洋子が乗っている船など、彼の視野がメガネのフレーム内に写っている対象(洋子に関連するもの)に占有されていることが、この演出から窺える。

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1巻 74ページ

 

 

 ●引用

全然気づけてない引用が多そう。

 

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左:第7話「ドランク・ラブ」表紙 
右:映画『パンチドランク・ラブ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)ビジュアル

 

 

 ●洋子の寝顔

最後に、この作品の痛切なラストについて。2020年、女性を主人公にした漫画作品の最も適切なラストは生きていくこと、それも自律的な生の提示だろう。ゆえに船長に固執するよりも、シナリオライターとして活躍する洋子、という結末はこの上なく正しい。さらに、洋子の脚本家人生は男性の師匠が書いたシナリオ教本からスタートしたが、その師匠本人が感涙するシナリオを書くまでに成長した姿の提示も、とても配慮が行き届いている。

 

洋子は生来の妄想癖を糧に、シナリオライターとして独り立ちするだけの強さを持ち、夢の中で船長に会いにいく。眠りが執筆につながることは師匠のセリフで語られており、夢/妄想がシナリオ/作品となり、彼女が自律的な生を歩む様子を示す、とても前向きなラストだ。

一方で見方を変えれば、洋子は現実には船長と結ばれなかったわけで、夢の中で好きな人に会おうとする姿は相当に痛ましい。

すぎむらの上手なのは、その船長に会いに行こうとする洋子の寝顔を、まるで子どものように描いていることだ。恨みや悲しみにくれる女性でなく、無垢な幼子のように描くことで、読者はそのあどけない娘が、一見幸せに見えても過酷なプロセスを歩むのを(彼女とおなじように現実を変えることはできず)傍観することしかできない無力さを味わう。それにより、一連の出来事がもはや主体的なアクションで変更される余地がない印象が強調される。

 

作品終盤における夢や幻想という位相空間の提示は、すぎむらの代表作『ホテル・カルフォリニア』(1991-1993)を思わせる。そしてこのもう一つの世界の提示は、「そのようにはならなかった現実」の潜像も背負っている。洋子はその重たい位相への行き来(寝起き)をくり返していることが窺える分、突き抜けないしんどさがある。『ホテル・カルフォリニア』と比べると、白か黒かという絶望よりも、グレーをどうにか生きていくという結末にも、2020年における同時代性を感じる。

 

ところで、すぎむらと同世代の映画監督・園子温の『地獄でなぜ悪い』(2013)もまた、妄想をテーマとしていた。あちらは映画領域の現実/虚構という命題における虚構を妄想に置き換えることで、観客の生活感の地続きに映画の文脈を対応させるという試みがあった。

『最後の遊覧船』における妄想は、妄想(意識)と夢 (無意識)という現実外の位相空間が手を結び、執筆行為という現実の一端を紡ぎだす。その妄想空間がとても手放しで浸れるような甘い空間ではないことを示しながら、その過酷な道を眠りながら起きゆく、女性の姿を描いている。そのしんどさを、こんなにうつくしく描くのか、という結末だ。

どちらも現実空間の対比項となる非現実の空間に、現実内虚構である妄想という卑近な営みを置き、構造化された作品形式に人間の「しょうもなさ」の感覚を引き込むことで新鮮さを獲得している。

  

以上は勝手な読み取りで、本当は、夢の中でも遊覧船に乗り続け、延々に湖をループし続ける洋子の生きざまに呆れるという読み心地が意図されたラストなのかもしれない。それにしたって、そのことに気づきもしていないような洋子の穏やかな寝顔……それにこればっかりはすぎむらの絵でなければ、実写では、とても写せない表情に見える。

 

すばらしいな、本当に。

ここに書いたことが、書かなかったこと(コマのリズムや絵といった、漫画としての描写力)に支えられているのだから、この作者にはどれだけの力があるのか。

まだまだ言いたいことはあるけれど*4 、早く、もう一度、『最後の遊覧船』を読みたいので、ここまでにする。

 

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*1 このことは、洋子、祐子、船長における「カモメ、フネ、ミズ」を「空、陸、海」と広範に捉えることで解釈できる。「フネ」とは水域における「陸」であり、洋子に襲いかかる祐子の目が、陸の生物である鹿と同じ描き方がされてもいた(2巻 29ページ)。また、裕子が女人禁制の神域に足を踏み入れても災いが起きないことから、彼女自身が神性を持つことが示唆されている。

*2 祐子と洋子で、異なるカモメの種類を割り当てられている可能性もある。 

*3 関係ないが、「浦沢直樹の漫勉neo」のすぎむらしんいち回でも、やや言及があった『パラサイト 半地下の家族』でも、同じ1つのソファの上で3つの夫婦の関係が比較展開される演出があった。

 *4 「モノローグの発展法(洋子の妄想の続きが、マンガ内現実として展開する)」、「作者自身の登場(すぎむら自身が作中に出てくる)」、「群像劇の収束感(最後に皆集まってくる、ロバート・アルトマン的な)」、「テレビ周りのシール(小道具描写の細かさ)」)など。