最近観たり読んだりしたもの。AC部、谷口暁彦、トム・ガニング。

 

AC部の個展「異和感ナイズ展」(銀座クリエイションギャラリーG8 2022. 2/22(火)~3/30(水))を観に行った。

 

AC部はこのごろ、MV『New Tribe』(2019)などに見られる「アニメーション制作の過程で生じるレイヤー構造を直接的に見せる」ことを積極的にやっていて、それがトム・ガニングのアニメーション論を照射するようで面白かった。

 

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AC部『Powder "New Tribe"』

 

初期映画・メディア史の研究者であるトム・ガニングは、2014年の論考でマノヴィッチを引きながら、アニメーションや映画に共通する源泉は、フレームとフレームが連なって運動を生むこと *1、としている。これはスタン・ブラッケージから映像に入った私みたいなものには、とても腑に落ちる感覚だ。

 

ガニングはこの論考でカメラレス・アニメーションの例を出しながら、写真のように撮影されたものだろうが、手によって描かれたものだろうが、どちらもフィルムのコマという静止画の段階を一度経て、それらが連なることで動画になるという視点を「アニメーション1」と呼び、いわゆるアニメーションとされている時間を伴う動きの描写を「アニメーション2」とし、彼の運動理念について検討している。

だけどここで立ち止まりたいのは、セルシステムやマルチプレイン以降 *2、「アニメーション1」の1フレーム内には複数レイヤーの重なりが垂直方向に潜在するということで、AC部の「3Dレイヤー飛散技法」は、そのレイヤー構造を示しながらアニメイトするものだ。

 

 

本展のメインといえるこのアニメーション作品は、彼らの長年にわたるテーマ「違和感」をガイドに、1フレームを構成するためのレイヤーの存在を示しつつ、対象レイヤー同士の間隔の黄金比を探り、制度化された美の尺度を問うというものだ。
そして上映スペースの前室には、アニメーションで描写された空間と同じレイヤー構造を持つ場面が「静止」した絵画作品となって展開されている。

 

一枚絵における層構造の提示は、時間の重ね合わせへの意識として、デュシャン未来派以降、タイガー立石美大生の卒展絵画などに点在的に見つけられる。AC部も2020年の展示「九越 -Transmorph-」において、MV『Sugarfoot』を絵画展開する際に近しいアプローチを取っているように見えた。しかし本展では「複数フレームを一枚絵に圧着したものか」「1フレームにおける複数の潜在レイヤーを示すものか」という視点において後者が選ばれ、アニメーションの検討から生成された絵画作品であるように感じる。

そして、そのような絵画作品に囲まれた空間に滞在するという鑑賞体験は、彼らのアニメーション作品の拡張実践としても機能している。

 

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マルセル・デュシャン《階段を降りる裸体 No.2》(1912)

 

ところで、アニメーションのレイヤー構造を空間的に創出する例に、栃木県の「山あげ祭」がある。「山あげ祭」は分割された背景である、舞台の書き割りレイヤーとなる板を数十人の力によって立て起こし、3日間にわたって移動しながら歌舞伎を上演する祭だ。板が立ったあとは、山に見立てられたレイヤーがほとんど動かない演目もあるが、『将門』には「山の切り返し」「館の回転」「雲のせりあげ」「崩れる館」といった変化があり(動画18:00〜)、ガニングの「アニメーション1」を介さないアニメーション「アニメーション0」として、私は勝手に注目している。そしてこの空間的、および人力による身体的なレイヤー構造は、谷口暁彦の《やわらかなあそび》 (2019/2021)に通じる気がする。

 

 

もともとパフォーマンス作品として上演された《やわらかなあそび》は、この前までやっていた「多層世界の歩き方」(ICC 2022.1月15日(土)—2月27日(日))にやや形を変えて出品されていた。身体と空間の関係性を問うというテーマのもと、現実空間と仮想空間というレイヤーの提示みならず、一部のシーンにおいてかなり直接的にCGレイヤー同士のぶつかりを視覚化する場面がある。

 

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谷口暁彦《やわらかなあそび》

 

まず、ICCでの展示でよいなと思ったところは、四つの大きなモニターで囲った空間に《やわらかなあそび》 を割り当てながら、その空間の半ば内側に《WYSIWYS(What You Search Is What You See)》(2019)というもう一つの作品が置かれていることだ。この作品は鑑賞者がマウスを使って仮想のスマートフォンで撮影ができるというもので、谷口暁彦自身のアバターに同期して、自撮りができる。そのように鑑賞者と谷口アバターとの親和性が高まった中で、《やわらかなあそび》 における谷口暁彦を見たり、ほかのキャラクターたちが通常は交わり得ないレイヤーの閾値を超えてぶつかったりしていく状態を視認できる。これにより、現実を含めた異なる時空間のレイヤーが重なっている印象がもたらされる(プログラミングにおいても、キメラモデルを作ってるのでなく、実際、強引にレイヤーを重ねているように思うがどうなんだろう)。

 

ガニングはソーマトロープについて述べる際、表と裏の面が重なることで、表だけ裏だけの絵柄では見ることができなかった像が出現する状態をヴァーチャルと呼び、そのイメージが糸を捻って引くという身体行為によって生じることに注目している *3。ガニングにならえば、1フレーム内で複数レイヤーが重なったり交錯したりしていても、それが1つのモニターで表示されている限りは、見た目がヴァーチャル風でもヴァーチャルではないのだが、《WYSIWYS》によって谷口との身体的同期が進んだ状態であれば、《やわらかなあそび》をヴァーチャルに体験することができるだろう。

 

AC部谷口暁彦も、ガニングの「アニメーション1」をさらに解体し、1フレームが持つ層 *4 をそれぞれに展開しているようで面白かった。彼らの作品とガニングを結びつける必要はないのだけど、丁度『映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』を読んでおり、このように感じた。この本はとても素敵で、訳して出してくれた人たちに大感謝……。

 

*1 「不連続なフレームの急速な継起による動きの技術的な生産」(「第8章 瞬間に生命を吹き込むこと」)、『映像が動き出すとき――写真・映画・アニメーションのアルケオロジー』 p. 276 

*2 セル発明よりも古く、レイヤーを取り入れた最初期の視覚玩具に、1850年代頃に生まれたクロマトロープがある。

*3 *1と同書 P.214。

*4 レフ・マノヴィッチは、デジタル映画に用いられるAdobeなどの編集ソフトが、あらかじめレイヤーを想定した仕組みを持つことに触れ、フェルナン・レジェの『バレエ・メカニック』(1924)などに見られたレイヤーという技術的な前衛性が、現代では標準化されるようになったと指摘する(『ニューメディアの言語』P. 419)。