能條純一 デフォルメとしての写実

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上記コラムの、参照画像付きバージョンです)

 

思い起こすのは、能條純一である

ビーバップみのるが「『浮浪雲』だけ読んどきゃいい、『浮浪雲』にぜんぶ描いてある」と映画『Bisキャノンボール』で言ったよう、『浮浪雲』(ジョージ秋山)にこの世の理はすべて描いてある。だから実際、『浮浪雲』だけ読めばいい。

 

だけど、思い起こすのは、能條純一である。

 

月下の棋士』が人間を描いたドラマトゥルギーとして、どれほど優れているか。
昭和天皇物語』がどれだけ研ぎ澄まされた演出の様式美を奏でているか。
どれだけ字数があっても、書き足らない。

 

マンバ通信に『昭和天皇物語』を紹介する記事が出たけど、足らない。足らない。足らない。


能條純一 目の演出

能條純一は、私が最も尊敬する演出家だ。
彼が『哭きの竜』の前に描いていた、80年初頭の短編を読めば、彼というマンガ家がどれほど映画的視点で世界を眺め、それを紙上のコマに構築させる技に長けているか、すぐに合点がいくだろう。

 

さて、能條純一といえば、目の演出だ。
彼は両目の大きさの均一/不均一、光を持つ/持たない、描くキャラクターの性格/性質、シチュエーションごとの心情によって、目の状態を丁寧に描き分ける作家だ。歌舞伎における黒目を使った見栄の様式「にらみ」も能條の得意技で、『ばりごく麺』の破天荒な主人公にも使われている。

 

昭和天皇物語』では恐ろしいくらい慎重に、すべての登場人物、すべてのコマにおいて、配慮が行われている。そして、『昭和天皇物語』において目の演出がとりわけ価値を持つのは、それが能條らの史観を反映させたものでもあるからだ。

 

たとえば、昭和天皇の祖父である明治天皇の両目は、それぞれ異なる光と焦点を持ち、もはやこの世の人ならぬ存在感を漲らせる。一方で、両者の間に位置する大正天皇の瞳は、両目が均一であるよう気遣われながら、とても単調に描かれている(アウトローばかりが登場する能條マンガにおいて、両目が均等に描かれる人物もまた珍しいものだ)。

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昭和天皇物語』1巻2話

 

能條マンガにおける目の演出は、『昭和天皇物語』に登場する人々、つまり内面的な心情を吐露できない立場の人々の胸の内を描くのに、とても適している。

 

しかしそれでも、今回書くのは別の話だ。
マンガ表現のデフォルメと、『月下の棋士』における「顔」の話をする。

 

ジブリによる心の可視化

マンガであれ、映画であれ、アニメーションであれ、人間を描く視覚表現の基礎には、「目に見えない人の内面を、目に見える外面に描き起こす」という考え方がある。この基礎に忠実な制作チームといえば、ジブリだ。

 

宮﨑駿『ハウルの動く城』(2004)の主人公・ソフィは魔法によって老女となる。この作品は、心の状態を「老い」と「若さ(幼さ)」に適用させている。魔法とは、自分自身による呪縛でもあり、ソフィは眠ったり(自意識から解放された状態)、魔法に打ち勝つほどエネルギーに満ちたりしている時は若い姿をしている。一方で勇気をなくしてしまうと、老いた姿に変わる。
ソフィと暮らすハウルが、彼自身の精神世界において幼い少年の姿をしているのも同じ理由だ。彼の心はまだ幼く、それゆえの魅力と危うさを持っている。ソフィとハウル、それぞれの心の状態はお互いの目には映るものの、自分では自分の姿を見ることができないというのも示唆的だ。

 

ジブリは、高畑勲の『おもひでぽろぽろ』(1991)で、主人公の幼少期をマンガタッチで、現在の姿をより写実的なタッチで描き分けるなど、心象風景の演出に注力してきた。宮崎吾朗コクリコ坂から』(2011)では、能條と同じ方法論で目の演出が行われ、現実を見据えずやみくもに戦争に邁進する軍人の目を斜視によって表現している。

 

違うタッチで描かれる、同じキャラクター

ジブリは、カメラという機械の目でなく、人間の目が捉える世界を描くが、そうした主観的表現と得意とするのはマンガの領分でもある(ジブリの主要メンバー、宮崎や高畑が所属していた東映動画の設立者たちは、アニメーションを「漫画動画」と呼んでいた)。

 

例えばマンガにはよく、同じ人物がシリアスなシーンでは八頭身、コミカルなシーンでは二頭身で描かれる描写がある。シチュエーションに応じて、キャラクターの目鼻が突然簡素化されることもある。それはキャラクターの内面描写であるとともに、シーンの雰囲気を伝える役割も果たす。

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ときめきトゥナイト』1巻1話(池野恋

 

月下の棋士』における顔

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月下の棋士』26巻279話/23巻249話(能條純一

さて、注目して欲しいのは、『月下の棋士』主人公・氷室将介の顔である。
彼の顔は将棋に集中すればするほど、試合場という現実を離れ、盤上の世界や記憶の空間に進むほど、写実化する。

 

氷室という人間が棋士として覚醒し、重要な局面にいるときほど、マンガのキャラクターの顔が読み手の現実の方へと近づくのだ。読み手はその表情に釘付けになる。彼らの顔の描写によってもたらされる緊張感は異様だ。

 

なぜこれほどの迫力が生じるかというと、まず能條純一のキャラクターは本作に限らず、皆、心の様子を顔に反映させて描かれる(口を閉じたキャラクターの顔に、発話セリフが当てられることもよくある)。

 

そのうえで『月下の棋士』では、試合の攻勢、キャラクターのバックボーン、それらを受けた精神状態が最も極限に達した状態の顔が大写しになる。顔のアップは向かい合う棋士同士の距離が実際に近いことにも由来する。つまり、棋士たちの「顔」はキャラクター本人の心象の反映でもありながら、対戦者の視点、対戦者から見た棋士の印象の可視化でもある。これだけの要素が一つの「顔」に止揚されるため、大変なエネルギーが生じる。

 

デフォルメのベクトル

そしてこの試みがマンガ表現全般において注目に値するのは、先に述べたデフォルメの方向、虚構/写実のベクトルが、ほか多くのマンガ作品と真逆に向かうことだ。

 

多くのマンガ作品は、まず基準となる通常モードのタッチがあり、そこから状況に応じて、よりデフォルメされたタッチに変化する。一方『月下の棋士』は通常のタッチから、状況に応じて、より写実的なタッチへと変化する。
能條と同じく、通常のタッチがあらかじめ写実寄りの井上雄彦SLAM DUNK』なども、前者の原則に基づいた表現をしばしば見せている。

 

写実といっても能條純一の「顔」は、無機的なカメラのレンズが捉えられるものではない。記憶にあるカモメの飛翔が眼球に写り込むなど、マンガによる絵の特性を活かした演出がされている。マンガ絵における写実性とは、実写の人物とは異なるマンガのキャラクターの細部に迫り、描き込むということで、単に3次元の人間に似せて描くということではない。

 

マンガの絵は、私たちが肉眼で見る情景を主要な線に集約することで生まれる。その際に省力化される顔のシワやディテールが、心象の誇張、デフォルメとして表出する、それが能條純一の描く「顔」の特異性である。

 

能條純一 演出とマンガ

能條純一は演出家であり、マンガ家だ。氷室将介のライバル・滝川が、病院でCTスキャンを受けながら神を意識するとき、彼の顔には非常に細い十字の光が重ねられる(この演出をくどいとする者は、安藤忠雄の「光の教会」ごと退けてほしい)。

 

マンガや映画、視覚表現の演出家は、観客が気づくことができるよう、しかしやりすぎにならないバランスを探りながら、観念やイメージ、目に見えない心情を見える形に具現化していく。

 

そして演出というものは、それだけでは単に方法論に過ぎない。「神性を十字で表現する」という方法自体は、誰にでも共有可能なアイデアだ。それをコマ割り、コマの流れ、シーン展開、セリフ、絵によって視覚化し、表現するのがマンガ家の技だ。能條純一は映像的な演出をマンガに止揚させる稀有なマンガ家だ。

 

以上になる。
能條純一スターシステム(彼は同じキャラクターを役者として、いくつかの作品に登場させている)や日活映画との関係性、BOOWY浜田省吾といった実在のミュージシャンの影響については、どこかでまた触れたい。『月下の棋士』のキャラクター、一人一人については、いくら言葉を費やしても足らない。

 

ジョージ秋山竹宮恵子、畏れても畏れ足らないマンガ家は他にもいる。
しかし、やはり思い起こすのは、能條純一である。

 

彼が描く登場人物たちの「顔」に注目して欲しい。